目からうろこを取られる神

「目からうろこを取られる神」使徒の働き9章1節~19節

「目からうろこが落ちる」ということわざがあります。このことわざの意味は、ある出来事を通して、全く新しい発想や考えを持つことを意味しています。また、このことわざが聖書から取られた、ことわざであることを知っておられるでしょうか。このことわざは、先ほどお読みしました、使徒の働き9章1節から19節のパウロに起こった出来事から取られたことわざです。

パウロは、熱心なユダヤ教徒で、神様の戒めを熱心に研究し、人々に神様の戒めを教える律法の専門家(ユダヤ教の教師)でした。イエス・キリストが十字架に着けられ殺された後、イエス様は復活して弟子たちにその姿を現して、天に昇って行かれました。残された弟子たちはイエス様の復活の証人として、人々にイエス・キリストの復活を宣べ伝え、キリスト教会が始められました。パウロにとって、死んだ人間が復活すること、また、十字架に着けられて殺された犯罪人イエスが神の子(救い主)であるとは、絶対に信じられないことでした。それゆえ、そんな間違った教えを人々に伝えるキリスト教を許すことができませんでした。そこで、パウロはキリスト者を捕らえ牢獄に入れて、彼らを激しく迫害したのです。

先ほどの使徒の働き9章の場面でも、パウロはキリスト者を捕らえるために、ダマスコという町に出かける途中でした。ところが、突然、天からの光が彼を巡らして、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聴きました。パウロが「主よ。あなたはどなたですか。」と聞くと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスです。」とお答えがありました。パウロはこの時、イエス様の弟子たちが宣べ伝えている復活のイエス様と出会ったのです。自分が正しく、イエスの弟子たちが間違っていると信じていたパウロが、本当に復活されたイエス様と出会ったのです。パウロはこの時、自分が間違っていたことを、イエス様によって教えられたのです。この時、パウロの目は開いてはいましたが、何も見えなくなっていました。イエス様はパウロのためにアナニヤを呼び、彼に、パウロの所に行き彼の上に手を置いて祈るように命じられたのです。アナニヤがパウロの上に手を置いて祈ると、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになったというお話です。

ここで大切なことは、パウロの心の目が、「死人が復活するはずがない」「十字架に着けられて殺されたイエスが神の子(救い主)であるわけがない」と言う「自分で作り上げた、うろこ」によっておおわれていたということです。私たちも知らず知らずのうちに、自分の目をうろこで覆ってしまっていることはないでしょうか。私も、教会に来初めの頃。イエス・キリストが処女のマリヤから生まれたということを信じることができませんでした。きっとマリヤは、他の男性と関係を持ち、夫のヨセフをだましたのだと思っていました。また、イエス・キリストが死んで三日目に甦り、天に昇って行かれたということも、弟子たちの作り話だと思っていたのです。

ここで大切なことは、パウロも私も自分の力でこの「うろこ」を取り除いたのではないということです。パウロのうろこを取り除かれたのは神様です。また、私の目からうろこを取り除かれたのも神様なのです。イエス様の処女降誕と復活は人間の知恵や知識で理解できるものではありません。ただ、私たちがイエス・キリストを神の子と信じたとき、または、信じたいと願ったとき、神ご自身が私たちの心の目を覆っているうろこを取り除いてくださるのです。

使徒の働き10章において、ペテロが不思議な夢(まぼろし)を見た場面が記されています。お昼の12時ごろ、お腹がすいて食事の準備が整うのを待っている間、ペテロは夢ごこちになり、天が開け大きな敷布のような入れ物が降りて来るのを見ました。また、その中に、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などが入っていました。そして、ペテロは「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声をききました。ペテロは「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」と答えました。すると「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」と言う声を聴くと、その敷物が天に引き上げられ、異邦人コルネリオから遣わされた人々がペテロの家に到着したというお話です。これは。パウロが異邦人伝道を始める前の出来事です。ユダヤ人は、ユダヤ人以外の民族を異邦人と呼び、彼らを汚れた民として、近づいたり、親しくなることを律法で禁じていました。また、ユダヤ人は、旧約聖書により、食べても良いきよい動物と食べてはいけない汚れた動物とを厳しく分けていました。それゆえ、ペテロは、先ほどの敷布の中にあった汚れた動物を食べることができませんと神様にお答えしたのです。しかし、神様のお答えは「神がきよめた物を清くないと言ってはならない。」というものでした。これは、食べ物の事ではなく、神の目に異邦人もきよい者であり、救われる民であることをペテロに教えるためのまぼろしだったのです。

私たちは神様から命じられたとき、ペテロのように「主よ。それはできません。」と答える者ではないでしょうか。ペテロの場合、小さいころから親に厳しく、食べても良い食物と食べてはいけない食物を厳しくしつけられた者にとって、食べてはいけない汚れた食物を食べることは体が拒否してしまうほど、難しいことだったおもいます。また、私たちは自分自身を見て、神様にそれは私にはできませんと答える者ではないでしょうか。また、自分の常識の枠にとらわれて、神様にそれは不可能ですできませんと答える者ではないでしょうか。しかし、よく考えるなら、その命令をされているのは全能の神様です。その神様が私たちをあえて選んで命令をされたのです。自分には力がないかもしれませんが、神様にそれができる力があるはずです。そこにも私たちは自分の目の前にうろこを置いてしまうのです。自分を見つめるなら不可能なことです。常識で判断したら不可能なことです。神様に不可能なことはありません。そこに、信仰が働くとき、私たちの目からうろこが取り除かれ、私たちは主の栄光を見るのです。