神からの恵み試練

「神からの恵み試練」詩篇119篇65節~72節

詩篇119篇は詩篇の中で一番長い詩篇です。また、この詩篇はヘブル語のアルファベット順に8節ずつ22の段落に分けられて構成されています。その中でも目立つ言葉は、「戒め」「教え」「みことば」「悟り」という言葉が頻繁に使われています。特に、先ほどお読みしました、65節から72節の区切りには、67節「苦しみに会う前は」と71節「苦しみに会ったことは」という二つのことばが私たちの目を引きます。作者は、この個所を通して、自分にとって苦しみは何であったかを伝えようとしているのがわかります。67節「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」71節「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。わたしはそれであなたのおきてを学びました。」とあります。この作者は、「苦しみに会う前には私はあやまちを犯しました。」と自分の罪を認めています。「しかし今は、あなたのことばを守ります。」と悔い改め、あらたに新しい歩みに踏み出そうとしていることがわかります。作者が、自分の罪を認め新たな道に踏み出したきっかけは、神様から与えられた苦しみのゆえでした。苦しみには誰しも会いたくないものですが、苦しみは決して、悪魔から来るものではなく、神様から特別な計画を持って与えられることがあります。

山登りをする人は、どうしてそんなに苦しんで高い山に登るのでしょうか。そこには、苦しんで登った人しか見ることができない世界があるからです。どんなに上手な写真家が写しても、また、ビデオに撮ってもその美しさを表現することはできません。それは、苦労して登った者にだけ与えられる神様の恵みのように思われます。

また、作者は、71節「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。」と告白しています。誰でも苦しみに会ったことがしあわせでしたと言える人は特別な人です。誰しも苦しみに出会えば、苦しく悲しく、神様を呪いたいほどではないでしょうか。なぜ、作者は苦しみに会ったことがしあわせでしたと言えたのでしょうか。71節「私はそれであなたのおきてを学びました。」とあります。その理由を「私は苦しみを通して神様のおきてを学んだ」からだと告白しています。先ほどの山と同じように、苦しみを通らなければ学ぶことができないことがあります。それが、神様のおきてです。イスラエルの国の最初の王サウルは神様に選ばれ預言者サムエルによって、油注がれた正式な王様です。サウル王の出だしは順調でした。しかし、次第に高慢になり、神様の命令よりも、自分のプライドを大切にし、高慢な者となり、最後には神様から退けられてしまいました。神様はサウルを王座から退け、少年ダビデに油を注ぎ新しい王に任命するように預言者サムエルに命じました。ダビデは羊飼いの家に生まれ、子供のころから兄弟たちと共に羊を飼っていました。そんなダビデが突然、神様に選ばれ、王としての油注ぎを受けたのです。しかし、依然としてサウル王が全ての権限を持っていました。そして、ダビデはサウル王からねたまれ、命を狙われる者となってしまいました。ダビデは四百人の兵隊を連れてサウル王から逃れ、逃亡生活を長い間、続けねばなりませんでした。しかし、ダビデはこの逃亡生活の中で、神様への信頼と忍耐を学んだのです。ダビデもまた、この詩篇の作者と同じように、苦しみに会ったことは私にとってしあわせでした。私はそれで、神様への信仰と忍耐を学びましたと告白する者ではないでしょうか。

旧約聖書に登場するヨブは、その当時、一番信仰深く正しい人でした。彼は神様とサタンとの争いのゆえに選ばれ、苦しみを負わされた人です。ヨブが家族を失ったとき、このように告白しています。ヨブ記2章21節「私は裸で母の胎から出てきた。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。」ヨブはこのような状況にあっても、罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。とあります。また、全財産を奪われ、彼自身にもひどい皮膚病に犯された時、彼の妻は「神を呪って死になさい。」と彼に暴言を吐きました。しかし彼は、10節「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」と答えました。それでもヨブは罪を犯すことを口にしなかったとあります。ヨブは立派な信仰者でした。ところがここにヨブの友人たちが現れ、ヨブと苦しみについて議論を始めたのです。友人たちは、ヨブの苦しみを見て、良かれと思ってヨブに罪を認めて悔い改めるように勧めました。そうすれば神様はヨブの罪を赦し、祝福してくださるとヨブを諭したのです。ところが、ヨブにしてみれば、こんな苦しみを神様から与えられるような罪は見当たりませんでした。(この苦しみはサタンの計画でした。)それで、ヨブは自分の罪を認めませんでした。それでもヨブの友人たちは自分たちの考えを押し付け、ヨブに悔い改めを求めたのです。最後に、ヨブは自分の潔白を信じるあまり、神様へに不平を口にするようになりました。ここで、神様がヨブに現れ、彼の間違いを指摘し、ヨブは神様との関係をもう一度、回復し、より深い神様への信頼へと導かれたのです。ヨブ記のテーマは、どうして義人は苦しむのかです。ヨブ記を通して、私たちが苦しむのは自分の罪の結果だけではないことがわかります。苦しみには色々な意味があり、先ほどの詩篇の作者のように苦しみを通して神様がその人に何かを教えるための場合もあります。また、ダビデのように、神様への信頼と忍耐を教える場合もあるのです。大切なことは、(1)苦しみには意味があるということ。(2)苦しみには出口(終わり)があるということです。また、(3)神様は苦しみの後で、祝福を備えておられるということです。苦しみの中にいると、自分は神様に呪われている。愛されていないのではないかと疑う気持ちがでてきます。しかし、神様は愛の神様です。私たちに意味のない苦しみを与えるわけがありません。また、神様は私たちを救うためにひとり子イエス様を私たちの罪の身代わりにされた方です。それほど、愛している私たちを、神が呪ったり、ただ苦しめるために災いを与えるでしょうか。私たちは、神様を信じていても、信じていなくても、自分の思い通りの人生を歩めるわけではありません。病気や裏切り、失敗や無実の罪で苦しめられる時もあります。そんな人生の中で、私たちに与えられているのが、神様の恵みです。神様は私たちに苦しみを与えて遠くからながめておられるお方ではありません。私たちが願うなら、私たちの近くにおられ、共に重荷を担ってくださるお方です。「私たちが願う」とは、自分の弱さを認めることです。そして、神様に助けを求めることです。そして、神様から助けられた経験が、私たちの信仰の深みと、神様への信頼を増すことになるのです。