神からの権威と人からの権威

「神からの権威と人からの権威」ルカの福音書20章1節~8節

エルサレムの人々は、イエス様を神様から遣わされた王様のように喜んでエルサレムの町に迎え入れました。イエス様はエルサレムの町に入られると、最初に宮で商売している人たちを追い出したとあります。ルカの福音書19章45節46節「宮に入られたイエスは、商売人たちを追い出し始め、こう言われた。『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」エルサレムの神殿には、連日、宮に参るためにたくさんの人が集まっていました。また、彼らのためにたくさんの屋台が開かれていたのです。しかし、その中には宮に礼拝するために必要な店もありました。当時、普段の生活ではローマの貨幣が使われていましたが、神殿に収めるお金は、ユダヤのお金シェケルで収めなければなりませんでした。それゆえ、両替する必要があり、両替屋がたくさん店を出していたのです。また、遠くか来る人は、わざわざ、家から牛や羊を連れてくることはできません。それゆえ、前もって祭司の許可を得た牛や羊を販売していたのです。これなどは、参拝者には必要な商売で、彼らは、神殿の責任を持つ祭司たちにお金を払って許可を得て商売をしていたのです。その商売人をイエス様は神殿から追い出したのですから、それは、神殿の礼拝を否定することとなり、祭司や律法学者との対立を深めることになりました。

ルカの福音書20章で、祭司長、律法学者、長老たちが集まってイエス様に立ち向かって言いました。2節「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」彼らがイエス様を非難したことは、宮で商売する者たちを追い出したこと、また、宮で民衆に神様のことを教えたことを指しています。律法学者とは、ユダヤ教の指導者で、旧約聖書を研究し、会堂で人々に聖書を教える先生です。また、彼らはラビとも呼ばれていました。ラビになるためには専門の学校があり、正規に学んだ人が会堂で教えることになっていました。しかし、イエス様はそのような学校で専門に学んだ人ではありませんでした。そこで、彼らはイエス様に何の権威で人々に神様のことを教えているのかと問い詰めたのです。また、祭司の仕事も、祭司の家庭に生まれ、親からその仕事を受け継がなければ祭司になることはで来ません。イエス様は大工の息子です。大工の息子がなぜ、人々に神様の話を教えるのかと問い詰めたのです。本来、祭司も律法学者も神様の権威によって働く仕事です。しかし、彼らの働きは神様から離れ、人の権威によって支えられていたのです。祭司は祭司の家系に生まれたこと。律法学者は、有名なラビに学んだことを誇りとしていたのです。

それに対してイエス様は、4節「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか人から出たのですか。」と尋ねられました。バプテスマのヨハネも正規に聖書を学んだ人ではありませんでした。しかし、民衆は彼の説教に耳を傾け、多くの人々が彼の意見に賛同して、洗礼を受けるために彼のもとに集まってきたのです。律法学者たちは、バプテスマのヨハネを、ラビ、律法の教師とは認めませんでした。しかし、民衆はバプテスマのヨハネを預言者と認めていたのです。それゆえ、バプテスマのヨハネの権威を人からと言えば、群衆が黙っていません。しかし、天からと言えば、それならどうしてバプテスマのヨハネを信じなかったのかと批判されてしまいます。それゆえ、彼らはイエス様に「どこからか知りません」としか答えられなかったのです。

マタイの福音書9章で、イエス様が中風の人をいやすお話があります。2節「人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』と言われた。」中風とは、現在の脳梗塞に似た病で、命が助かっても体に麻痺が残る病です。また、当時、らい病や中風などの重い病はその人が罪を犯し、神からの罰を受けたと考えられていました。それゆえ、中風やらい病などは神様に罪を赦されなければ治らないと考えられていたのです。そのような状況で、イエス様は彼に「あなたの罪は赦された。」と言われたのです。当然、律法学者たちにとっては許せないことばです。神以外は人の罪を赦すことができないのですから、神でもないイエス様が人に「あなたの罪は赦された。」という事は、神を冒涜することばとしてしか受け取れなかったのです。4節~6節「イエスは彼らの心の思いを知て言われた。『なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。あなたの罪は赦されたと言うのと、起きて歩けと言うのと,どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。』こう言って、それから中風の人に、『起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい』と言われた。」イエス様は彼らに、ご自分が神の子であることをわからさせるために、また、ご自分が神様から人の罪を赦す権威が与えられていることを証明するために、中風の人に、「起きて、寝床をたたんで、帰りなさい。」と言われたのです。イエス様が人の罪を赦す権威を神様から与えられていなかったなら、中風の人は起き上がることはできなかったでしょう。しかし、7節「すると、彼は起きて家に帰った。」とあります。8節「群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」とあります。このイエス様の働きを見て群衆は、イエス様の権威が神様から来ていることを認めて驚きました。しかし、律法学者、祭司、長老たちはイエス様の権威を認めようとはしなかったのです。

群衆はイエス様の行う業(奇跡)を見てイエス様が神様から遣わされたことを信じました。しかし律法学者たちは同じ奇跡を見てもイエス様が神様から遣わされたことを認めませんでした。信じることと理解することには大きな違いがあります。群衆はイエス様を信じましたが律法学者たちはイエス様が何者であるかを理解しようとしました。しかし、彼らはイエス様の行う奇跡を理解できずに、イエス様を否定したのです。私たちも同じです。神様は私たちがイエス様を神の子と信じるために聖書を与えて下さいました。しかし、多くの人々は聖書を理解しようと努力します。そして、多くの人々は、イエス様が行った奇跡のゆえにつまずき、理解できずにイエス様を信じることができません。私たちは神様のことを完全に理解したり、聖書を完全に理解することはできません。しかし、私たちが神様の前にへりくだってイエス様のことを信じたいと願うとき、(聖書の権威を認めるとき)神様は私たちにイエス様を信じる力を与えて下さいます。私たちは、自分の力でイエス様を神の子と信じるのではなく、神様に助けを求めるとき、神様は聖書の言葉を通して私たちに、ご自身のことを明らかにしてくださるのです。