神が人として馬小屋で産まれた

ルカの福音書2章1節~7節 2022年12月11日

クリスマスは、神の子であるイエス・キリストが神の御姿を捨て、私たちと同じ人間として生まれてくださったことをお祝いするお祭りです。私たち日本人は、神が人として生まれたことの重大さを十分に理解することが難しい国民ではないかと思います。今日は、イエス・キリストが人として生まれたことの意味について考えます。

1、神が人として(肉体をもって)お生まれになられた。

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は唯一の神、創造主だけを信じる信仰です。日本人は八百万の神を信じる国民です。蛇やキツネなどの動物から、太陽や月、人間さえも神としてあがめる国民です。その差は大きく、私たちが聖書を理解するうえで、そのことを心に留めて聖書を読まなければ、十分にその内容を理解することはできません。たとえば、イエス・キリストはなぜ、死刑の判決を受けたのでしょうか。マタイの福音書26章59節からイエスの裁判の状況が書かれています。ここで、大祭司たちは、イエスを罪に定めるために偽証人を立てましたが、それでもイエスを罪に定めることはできませんでした。そこで大祭司はイエスに言いました。63節「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」それに対してイエスは言われました。64節「あなたが言った通りです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」65節66節「すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。『この男は神を冒涜した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒涜することばを聞いたのだ。どう思うか。』すると彼らは『彼は死に値する』と答えた。」とあります。ここで大祭司が自分の衣を引き裂いたのは、自分の怒りを人々に伝える行為です。明らかにこの大祭司が怒りの表現を表したのは、イエスが自分を神と認めたことにあります。また、そのことばは、大祭司がイエスを罪に定めるために、あえてイエスに投げかけた質問への答えでもありました。イエスはここで、二つの選択肢がありました。自分が神であることを認めれば死刑の判決を受けます。一方で、自分は神の子キリストではなく、預言者であると言えば、大祭司はイエスを罪に定めることはできませんでした。そんなことはイエス・キリストもご存じだったはずです。イエスは、あえて、死を覚悟し、自分が神の子キリストであることを認め、真実を話されたのです。しかし、大祭司も群衆も、人が神であることは認めることができません。自分を神とする者は、すべて偽者で、神を冒涜した者です。そこでユダヤ人は、イエスを怒り、十字架に付けて殺してしまったのです。彼らにとって神は唯一で、絶対的な存在です。その神が罪人である人間になるはずがない、これが彼らの根本的な考えなのです。動物や人間を普通に(疑いなく)あがめる日本人とは大きな違いがあるのです。

2、馬小屋でお生まれになった神の御子

イエスが神の御子であり、人の子として生まれることが、父なる神の御心ならば、なぜ、イエス・キリストは馬小屋(家畜小屋)で誕生されたのでしょうか。人々がイエス・キリストを神の子と信じ、あがめるためには、祭司の家や王様の家で誕生させたほうが、人々がイエスを尊敬し、神の子と信じやすいように思いますが、なぜ、馬小屋で生まれ、大工の家で育てられたのでしょうか。そこには、どのような意味があるのでしょうか。

ある有名な説教者は「馬小屋は私たちの心を表している」と解説しています。確かに、馬小屋は汚く悪臭の強い場所です。以前、牛小屋に入ったことがありましたが、そこもかなり臭いがきつくて長くいることが出来ませんでした。私たちの心の中はどうでしょうか。もし、心の中を映像として見せることができたとしたら、あなたは、人々の前で自慢して見せることが出来るでしょうか。私は絶対に恥ずかしくてできません。62年間生きて来て、大きな犯罪を犯したことはありませんが、この62年の間に、人を憎み、妬み、人を傷つけてきました。私の心の中はそのような罪で、真っ黒になっているのではないでしょうか。

ヨハネの福音書8章に、姦淫を犯した女性がイエスの前に引き出されました。ユダヤの法律では、姦淫は死刑に値し、それも、人々から石を投げられて殺されるという重罪です。律法学者たちはイエスを罠にかけるために、あえて、イエスの前にこの女性を連れてきたのです。もしここで、イエスが、彼女を赦すように言えば、律法学者たちはイエスが神の教えである律法を守っていないと、ユダヤ教の裁判にかけるつもりでした。また、イエスが彼女を死刑にするべきだと言えば、当時、ユダヤ人はローマ政府に支配されており、死刑の判決を下すことは許されていませんでした。もし、イエスが勝手に死刑にすべきだと言えば、律法学者たちは、ローマ政府に反逆する者として、イエスを訴えるつもりでした。彼らは、どちらを答えてもイエスを訴えられる状況を作ったのです。イエスは群衆に言われました。ヨハネの福音書8章7節「あなた方の中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」9節「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた彼女とともに、イエスだけが残された。」とあります。何が起こったのでしょうか。イエスのことばに、一人一人が心刺され、だれも、彼女に石を投げることが出来ずにイエスの前から立ち去ったのです。私たちはどうでしょうか。彼女に石を投げつけることが出来るような罪のない心を持っているでしょうか。先程の説教者が言われたように、私たちの心の中は、馬小屋のように汚れた物ではないでしょうか。しかし、幼子イエスはそこで誕生されたのです。イエス・キリストを信じることを、別の言葉で、イエス・キリストを受け入れると表現するがあります。イエス・キリストを信じるということは、イエス・キリストを理解することではありません。そうであるならば、誰も、イエス・キリストが神の御子であることを理解することはできないでしょう。しかし、イエス・キリストが神の御子であることを理解できなくても、受け入れることはできます。それは、聖書のことば、神の約束を信じ、イエスを救い主として心に迎えるということです。マタイの福音書1章23節で、主の使いはヨセフに生まれてくるこどもが「インマヌエル」と呼ばれると言われました。その意味は「神が私たちとともにおられる」という意味であると説明しています。神が共におられるという意味は、神が人となり私たちと共におられるという意味と、イエスを神の子と信じた者の心の中に神が共におられるという意味の二つの意味があると思います。罪がない聖い神が汚れた社会に生まれてくださいしました。それを聖書は馬小屋で生まれた幼子の誕生で表現しています。それと共に、神が汚い私たちの心の中に住んでくださることも意味しているのではないでしょうか。イエス・キリストが王様の子として生まれたとしたら、限られた者しか、イエスに出会うことはできませんでした。イエスは、大工の息子として生まれ、貧しい者の友となられました。神が遠くから私たちを眺めておられる神であれば、誰も神に近づくことが出来ませんでした。しかし、神は、イエス・キリストが幼子として生まれることによって、罪人である私たちに近づいてくださいました。また、私たちを罪から救うために十字架の上で命さえ犠牲にしてくださいました。それゆえ、私たちはイエス・キリストを神、神の子と信じイエスの誕生を心よりお祝いするのです。