創世記17章1節~14節
創世記の12章で、神はアブラハムと特別な契約を結びました。アブラハムが神の祝福を受ける条件は創世記12章1節「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」でした。アブラムは神のことばに従って神の示す地に旅立ちました。その時、アブラムは75歳でした。それから24年が経ち、アブラムが99歳の時に神は再びアブラムに現れてアブラハムという新しい名前を与え、新たに契約を結ぶことを望まれました。それが「割礼」です。9節~11節「また神はアブラハムに仰せられた。『あなたは、わたしの契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって。次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それがわたしとあなたがたの間の契約のしるしとなる。』これはアブラハムだけではなく、彼の子孫とも結ばれる契約です。この後、ユダヤ人たちは、生まれて八日目に割礼を施すことになりました。
また、神はアブラハムに、妻サライについて次のように言われました。15節16節「また神はアブラハムに仰せられた。『あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。』」以前、神がアブラムに言われたことばは、15章4節「ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」でした。このことばから、アブラムの跡継ぎはサライから生まれなくても、アブラムによって生まれる者が跡継ぎになると受け取ることが出来ます。それゆえ、アブラムの妻サライは自分の女奴隷ハガルをアブラムに妻として与え、アブラムもハガルを妻として受け入れました。そしてハガルはアブラムの子イシュマエルを産んだのです。ところが、17章で神は、はっきりと、アブラハムとサラの子が跡継ぎとなると約束されました。これを聞いてアブラハムはどうしたでしょうか。17節18節「アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。『百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。』そして、アブラハムは神に言った。『どうか、イシュマエルが御前で生きますように。』」アブラハムは笑ったとあります。アブラハムは自分の年齢とサラの年齢を考えて、二人に子が生まれることは不可能だと考え、神の約束のことばを笑ったのです。そして、アブラハムは跡継ぎはイシュマエルで十分ですと神に訴えたのです。ここにアブラハムの信仰の弱さを見ます。しかし、アブラハムだけではなく、私たちも同じような弱さがある事を認めなければなりません。そんなアブラハムに神は言われました。19節、20節「神は仰せられた。『いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサク(彼は笑う)と名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。』」このことばを聞いてアブラハムはどうしたでしょうか。アブラハムとイシュマエルだけではなく、彼の家の男たちすべてに割礼を施したのです。アブラハムは神のことばを理解できないないながらも、神の約束を守るために、家にいる男たち全員に割礼を受けさせたのです。それがアブラハムの信仰でした。信仰とは神の計画を理解することではなく、神に信頼して従うことです。なぜなら、神には不可能なことがないからです。
割礼は、アブラハムの子孫たちが神の民となるために必要な儀式でした。また、この割礼はイエスの時代、パウロの時代にも行われていました。ところが、この事がパウロの宣教にとって大きな障がいとなりました。ユダヤ人クリスチャンたちが、異邦人の救いに対して割礼を受けなければ救われないと、異邦人でクリスチャンになった人々に割礼を受けるように要求し出したのです。パウロはこの事に大きく反対しました。パウロは、人はイエス・キリストを神の子と信じる信仰によって救われると教えていたからです。大人が割礼を受けることは大きな痛みを伴います。それゆえ、異邦人に伝道するパウロにとって割礼は大きな問題でした。そこで、パウロはエルサレムに赴き、エルサレム教会の長老たちと話し合い、異邦人に対して割礼を求めないで、イエス・キリストを神の子と信じる信仰によって救いが受けられることが認められたのです。これを「エルサレム会議」と呼び、キリスト教が世界中に宣べ伝えられる大きな分岐点になったのです。パウロは割礼を否定したわけではありません。救いの条件として割礼を受けることを否定したのです。アブラハムの時代、神はアブラハムとその子孫に神との契約のしるしとして割礼を受けるように命じました。今、私たちは神より新しい契約を与えられています。それは、私たちの行いによる救いではなく、神の子イエス・キリストがなして下さった十字架の死と復活を信じる信仰による救いです。それは、イエス・キリストが復活した方法を理解することではなく、信じることです。アブラハムも100歳、サラ90歳に子が生まれることを理解できず、笑ったとあります。しかし、アブラハムは神のことばを信じて割礼を受けたのです。神は100歳のアブラハム、90歳のサラに男の子を授けました。そして、その子にイサク(笑う)という名を付けるように命じました。神は二人の不信仰な笑いを、喜びの笑いに変えてくださったのです。私たちも、この世の常識や知恵では、イエスの復活を理解することはできません。それゆえ、信仰によって歩むとは、アブラハムのように神に信頼し、神の約束を信じて歩むことなのです