神によって最初に創造された人アダム

「神によって最初に創造された人アダム」創世記2章4節~7節

創世記の1章には、人間を含めた全ての創造が六日間で完成され、七日目に神様が休まれたことが記されています。また、その創造の記述の中で、人間だけは神様の形に創造されたことを先週まなびました。それは、神様と交わることができる特別な関係(恵み)であることを説明しました。そこに、神様が人間を特別に愛して創造された神様の気持ちが表されています。

聖書は2章において、さらに、詳しく人間の創造について再び記しています。7節「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。」ここで聖書は人間について二つの事を私たちに教えています。(1)神は土地のちりで人を形造られた。(2)その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。人が土地のちりで造られたことは、人間が価値のないものから造られたことを意味しています。土地のちりはどこにもあるもので、何の役にもならないものです。しかし、神様は、そんな価値のないものに、ご自身で、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。この「いのちの息」が何を指すのか、色々な意見があります。霊を指すのか、魂を指すのか、それとも、神様の特別な恵みを指すのか。しかし、確かなことは、神様がわざわざ、人の鼻からいのちの息を吹き込まれて、はじめて、人は生きものとなったということです。ここにも、人が神様にとって特別な存在であることを表しているのです。

次に聖書は、神様が初めに創られたアダムを、エデンの園に住まわせたことが記されています。エデンの園とはどのような所でしょうか。9節「神である主は、その土地から、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木それから善悪の知識の木を生えさせた。」とあります。神様はエデンの園に三種類の木を生えさせました。その中で、神様は「善悪の知識の木からは取って食べてはならない、それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と仰せになられたのです。しかし、アダムとその妻エバは蛇(サタン)に誘惑されて、善悪の知識の木から取ってその実を食べてしまいました。蛇の誘惑のことばはこうです。3章4節、5節、「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」明らかに蛇の誘惑は「あなたがたも神のようになれる」ということでした。私たちが神のようになるということは、私たちが神様から離れ、自分たちで善悪を決めるということです。このことばは、自由で魅力的なことばに聞こえます。しかし、私たちが、めいめい、自分にとって善悪を決めるようになったとき、自己中心で、自分さえ良ければという世界をつくってしまいます。混沌ということばがありますが、力が強い者が弱い者を支配するそのような社会です。

二人が、善悪の知識の木の実を取って食べても、神様のことばのように死にはしませんでした。しかし、二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉で、腰のおおいを作ったとあります。また、二人は、神様の呼ぶ声を聞いて恐れて、園の木の間に身を隠しました。罪を犯す前のアダムにとって、神様の呼びかけは優しい、親しいことばでした。しかし、神様の約束を破り、罪を犯してしまったアダムにとって、神様のことばは恐ろしい怒りのことばに変わったのです。私にも経験があります。父の大切なものを壊したとき、ばれるのを恐れて、父に近づかないようにしたことがありました。ここで、二人への神様の呼びかけのことばはこうです。9節「あなたは、どこにいるのか。」でした。全知全能の神様が、アダムとエバの隠れた場所に気が付かれなかったのでしょうか。そうではありません。神様はここで、二人に悔い改めのチャンスを与えられたのです。神様は、二人が自らの罪を認めて、神様の前に出てくることを期待されたのです。二人は自分の罪を認めて悔い改めたでしょうか。12節「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは自分の罪を認めず、女(エバ)の罪にして、責任を逃れようとしました。エバは13節「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」エバも自分の罪を認めず、ヘビの責任にしました。この姿は、二人だけではなく、私たちの姿でもあるのではないでしょうか。自分の罪を認めず、他人の責任にしたり、社会の責任にしたり。私たちは自分の罪をなかなか、素直に認めようとしないものです。しかし、神様は二人の罪のゆえにエデンの園から追い出されましたが、二人の哀れな姿のために、皮の衣を着せてくださったとあります。あくまでも神様の愛は変わらずに人間の上に注がれています。それは、イエス様のたとえ話にある、放蕩息子を待ちわびる父親のように。また、ご自分を十字架に着ける者のために、神様に赦しの祈りをするイエス様のように。

「たいせつなきみ」という絵本があります。物語は、木で作られた小人たちのお話です。その町では、良いことをした者には「お星さま」シールが貼られ、失敗したり、だめなことをすると灰色の「だめじるし」シールが貼られました。主人このパンチネロは「だめじるし」シールをたくさん張られた男の子。ある日、パンチネロはお星さまシールも、だめじるしシールも貼られていないルシアに出会いました。なぜ、彼女には何のシールも貼られていないのか不思議に思い、彼女にその理由を聞きました。すると彼女は「毎日エリに会いに行くの」と答えました。エリとは、木で作られた小人たちの作り主です。パンチネロはエリと出会い、彼は、自分(パンチネロ)の事をどれほど大切に思っているかを話しました。たとえだめじるしシールがたくさん貼られているとしても。大切なことは、誰がどう思うかよりも、わたしがどう思うかということ。パンチネロはそれを聞くと喜んで帰りました。その時、パンチネロのだめじるしシールがひとつ落ちました。というお話です。エリとは、神様を表し、木で作られた小人たちは、私たちを表しています。私たちは、土地のちりで造られた者です。しかし、神様によって特別に鼻から息を吹き込まれた者です。たとえ罪を犯したとしても。神様の愛は変わらず、私たちをいつも高価で尊い者として私たちを見ておられるのです。