「神に祈る人々」創世記4章25節26節
今年も三が日、多くの日本人が神社やお寺に初詣に出かけました。以前、お正月にテレビを見ていて、若い宣教師たちに、日本人はどうして、お正月に神社やお寺に出かけるのか聞かれたことがあります。普段は神様を信じていないように見える人々が、あんなに多くの人々が、神社やお寺にお参りして祈る姿を見て不思議に思ったのでしょう。その時、私は、「あれは、日本の習慣(行事)のようなもので、皆がみんな真剣に神様を信じて祈っているわけではない。」と説明しました。しかし、かと言って、神様の存在を信じていない人々が神様に祈るわけはないので、多くの人々は、神様の存在は信じているが、真の神がどのような神であるのかを知らないというのが日本人の本当の姿のように思えます。
創世記の1章に神様の創造の御業について書かれてあります。ここで、神様は創造の最後に人間を創造し、鳥や家畜、地をはうすべてのものを支配するように仰せになられました。また、神様は人をご自身のかたちとして創造されたとあります。ここで言われている神の形、神に似せてということばは、外見のかたちが神に似せてという意味ではなく、神と近い者として、または、神とコミュニケーションができる者として創造してくださったという意味です。私たち人間でも、犬猫に大切なことを任せることはしません。大切なことを任せるにはそれだけのコミュニケーションができる、責任を任せる能力のある人に任せます。神はこの地上を治める者として、人間を造り、人間に神と交わる(対話する)能力を与えてくださいました。創世記の2章で、神は人に「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」と命じられましたが、それが、神が人間をコミュニケーションできる者として造られた証拠です。しかし、人間は神様の信頼を裏切り、罪を犯し、エデンの園から追い出されてしまったのです。
創世記の4章において、アダムの息子、カインが弟のアベルを殺すという犯罪を犯してしまいました。その罰として、カインはさらに神様から遠く退けられてしまいました。カインは地をさまよい、ノデの地に住み着き、自分の欲望を満たす町を作り始めました。そしてカインの子孫は、力と快楽の文化を作り出したのです。カインとアベルという二人の息子を失ったアダムとエバに神様はもう一人の子セツを与えました。26節を読むと「セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」とあります。ここで、神から退けられたカインの子孫と、神に祈るセツの子孫がありました。創世記6章に、「神の子ら」と「人の娘たち」が登場します。「神の子ら」は「セツの子孫」。「人の娘たち」は「カインの子孫」を指しています。時がたち、二つの種族が混じり合うようになりました。その結果、何が起こったでしょうか。創世記6章5節「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」とあります。そして、神様は地上に人を造ったことを悔やみ、洪水ですべての物を滅ぼすことを決心されたのです。そして、ノアの時代に洪水が起こり、ノアの家族以外はすべて滅ぼされてしまいました。神様は、ノアの家族からもう一度、創造の御業をやり直されたのです。
このように、神様は初めから、人を神様とコミュニケーションできる者として創造してくださいました。しかし、人間は自らの罪によってこの特権を失ってしまったのです。また、多くの人々が神様の存在を否定することができないのは、人が神によって造られた証拠でもあります。神様は、人間がこの特権をもう一度、取り戻すために、一人子イエス様を人として生まれさせ、人の罪の問題を解決するために十字架でイエス様の命を取られました。そして、神は、イエス・キリストを神の子と信じる者の罪を赦すと約束してくださいました。私たちはイエス様を通して、もう一度、神様との親しい関係を取り戻すことができるのです。
新しくイエス様によって生まれたキリスト者は、どのように祈ればよいのでしょうか。マタイの福音書6章でイエス様は祈りについて三つのことを群衆に教えています。(1)マタイ6章5節6節、「人に見せるためではなく、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」(2)7節8節「異邦人のように同じことばを繰り返さない。」(3)9節~13節「主の祈り」主の祈りはイエス様が私たちに教えてくださった模範の祈りです。主の祈りは大きく六つに分けることができます。(1)「天にいます私たちの父よ」これは、神様への呼びかけで、遠くにおられる偉大な神に祈るのではなく、私たちを愛し、私たちの必要をすべて知っておられる父なる神に祈るということで、祈る神様がどのようなお方で、私たちとどのような関係があるのかをはっきりするために、大切な呼びかけです。(2)9節、「御名があがめられますように。」神を褒めたたえる祈り。(3)「御国が来ますように。」御国とは、天国を指す言葉と、神の支配を指す言葉と二種類あります。この場合、神の支配を祈る。(4)11節「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」私たちの必要を祈る。(5)「私たちの負い目をお赦しください。」罪の告白。(6)「私たちを試みに会せないで、悪からお救い下さい。」神様の導きと助けを願う祈りです。
また、マタイ7章7節8節で「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」と祈り続けることの重要さを教えています。しかし、イエス様は、十字架に付けられる前に、ゲッセマネの園で、このように祈ったと記されています。ルカの福音書22章42節「父よ。みこころならば、この杯を取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」杯とは十字架の死を意味しています。イエス様は、十字架の死以外の神様の栄光を求めましたが、最後は、神様の御心に従いますと祈られたのです。私たちの祈りは、自分の願いを押し付けるものではありません。熱心に祈り続けることは大切ですが、最後は、神様の御心に従うことができるように祈るということです。そして、私たちの祈りはイエス様の名を通して、父なる神の前にと届けられるのです。今年一年、神様の御心がなるように共に祈って行きましょう。