神の義と神の愛

「神の義と神の愛」創世記6章5節~7節

先週、カインの子孫とセツの子孫が混じり合い、悪が増大し神は地上に人を造ったことを悔やみ心を痛められ、この地上を洪水で滅ぼされることを決意されたと言う所までお話しました。8節「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」とあります。そして、神はノアに洪水で地上を滅ぼすことを教え、箱舟を作るように命じられたのです。ここで考えたいことは、神様はノアの家族だけを助けることを考えていたかと言うことです。神様がノアに造るように命じられた船の大きさはは、長さ三百キュビット(44センチ×300=132m)幅五十キュビット(44センチ×50=22m)高さ三十キュビット(44センチ×30=13,2メートル)三階建ての大きな船です。それをノアの家族8人で作るわけですから、どれだけの年月がかかったことでしょう。また、これだけ大きな船ですから、隠れて作業することは不可能であったと思われます。周りの人々はノアの家族が山の上で船を造っていたのを見ていたのです。

マタイの福音書24章でイエス様は世の終わりについて、ノアの日のようだとお話しておられます。37節~39節「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」ここでイエス様が群衆に教えようとされていることは、世の終わりが突然、現れるということです。それゆえ、42節「目をさましていなさい。」と私たちに警告されているのです。

ノアの箱舟の話に戻って、神様がノアの家族を助けるだけであったなら、あのような大きな箱舟を作らせなくても、別の方法もあったのではないかと思います。しかし、神様はノアに時間をかけて大きな箱舟を作らせました。そこには、神様の特別な計画(特別な思い)があったのではないでしょうか。たとえば、時間的なこと。当時、あのような大きな船は存在しませんでした。また、船を作るための道具も十分ではなかったでしょう。しかも、男性はノアと三人の息子だけです。これだけの人数でどれだけの作業ができるでしょう。聖書には具体的にどれだけに年数がかかったか記されていません。想像ですが、1年や2年ではないように思います。10年か、それ以上かも知れません。その間、周りの人々は、ノアの家族が船を作るのは見ていたはずです。なぜ、ノアの家族が箱舟を作っているのか聞いたはずです。ノアは人々に神様のことば、「洪水で地上を滅ぼす」ことを伝えたはずです。しかし、人々はノアのことばを信じようとはせず、昼間から食べたり、飲んだりしていたのです。そして、洪水が起こり、ノアの家族と箱舟に入った動物以外は滅んでしまいました。神様は、ノアの話を聞いて、一人でも多くの者がノアの家族と協力して箱舟を造り、ノアの家族とともに救われることを期待されたのではないでしょうか。しかし、だれもノアの話を本気で聞く者はいませんでした。神様は残念な思いで、洪水を起こし、ノアの家族だけを助けられたのです。ノアの洪水のお話は、私たちへの警告です。神様はこの洪水の後、この地上を再び洪水で滅ぼすことはないと約束してくださいましたが、新約聖書で、この地上は火で焼かれるために残されていると記されています。また、イエス様も世の終わりについて警告しておられます。ノアの時代、神様はノアの家族を救うために箱舟を作らせました。現代は、私たちを救うために神様はイエス・キリストを与えてくださいました。イエス様を通して救われる方法です。また、しるしという意味では、神様はこの地上に教会を与えてくださいました。ノアの時代、ノアの箱舟を通して人々に洪水で地上を滅ぼすことを伝えようとされましたが、人々はノアのことばを信じようとはしませんでした。現在、神様は聖書のことばと教会を通して、一人でも多くの人が救われることを願っておられるのです。そういう意味では、私たちキリスト者は神様から大切な使命が与えられているのです。

創世記の6章に戻って、なぜ、地上は洪水で滅ぼされてしまったのでしょうか。それは、人間の悪が増大したからです。現代はどうでしょうか。人間の罪を考える時、ノアの時代も今も変わらないのではないでしょうか。そういう意味で、今の時代、世の終わりが近づいていると言えます。しかし、それと共に、今は恵みの時代でもあります。神様の性質は愛です。しかし、同時に神様は義なるお方です。この義は罪を見逃すことができない正しさを示しています。それゆえ、この地上を裁かなければならない立場でもあります。神はこの愛と義の性質の故に、地上を滅ぼす計画を立て、そのために、ひとり子イエス様のいのちを十字架の上で取られたのです。

20代の前半に三国志を読んだことがあります。三国志は中国の古い歴史書です。当時、魏と呉と蜀という三国が主権を争っていました。三国志の中で「泣いて馬謖を切る」と言う有名な故事(場面)があります。蜀の国の軍師に有名な諸葛亮孔明がおりました。ある戦いで孔明は自分の信頼する部下、馬謖に軍を預けて戦いに出しました。その際、孔明は山の上に陣取ってはならないと馬謖に命令していました。しかし、馬謖は自分の判断で命令に反して山の上に陣を立てました。ところが、敵に山を囲まれ、蜀軍は大敗してしまいました。その後、軍議が開かれ、命令を無視して大損害を与えた馬謖に孔明は死刑を命じたのです。その時、孔明は涙を流したというのです。孔明の立場からすれば、馬謖を助けることもできたでしょう。しかし、それでは軍紀が乱れてしまいます。孔明は涙を流して愛する弟子(部下)に死刑の判決を下したのです。上に立つものは、私情を加えて裁きを曲げてはいけないことを教える故事です。旧約聖書に登場するダビデ王はその失敗をおこなった王です。ある時、ダビデの長男アムノンは腹違いの妹タマルを愛し彼女を犯してしまいました。タマルの兄アブシャロムは父ダビデ王がこのことをどのように裁くのか見守っていましたが、ダビデは何の裁きも下しませんでした。そこで、アブシャロムは自らアムノンを殺し国外へと逃亡したのです。しばらくして、将軍ヨアブはダビデ王にアブシャロムを赦して国に迎えるように進言しました。ダビデはアブシャロムに国に帰る許可を与えました。しかし、アブシャロムを赦せないダビデは、アブシャロムに会おうとはしませんでした。そんな中、アブシャロムは父ダビデ王に失望し、ダビデ王を殺し自分が新しい王になるように働き始めたのです。ダビデは身の危険を感じ国外に逃げ出しました。そして、アブシャロムの軍隊とダビデの軍隊が戦いを交え、ダビデ軍が勝利しアブシャロムは殺されてしまいました。ダビデは自分が勝ったことを喜ばないで、アブシャロムが殺されたことを嘆きました。元々、この出来事は、初めにダビデが自分の子アムノンを正しく裁かなった故のできごとです。ダビデはそのために二人の息子を失ってしまったのです。

上に立つ者(責任者)が正しく裁きを行わなければ国は滅びます。であるならば、尚の事、神は神の義によって人を正しく裁かねければなりません。しかし、神は愛であるがゆえに、ご自身のひとり子イエス様を犠牲にして私たちの救いの道を備えてくださったのです。これが神の義と神の愛です。私たちの信じる神様はそれほど素晴らしい愛と義の神様なのです。