神の声を受け取る者サムエル

サムエル記第一3章1節~14節

サムエル記の時代背景は、士師記21章の状態を引き継いでいます。士師記の最後は暗黒の時代と呼ばれ、士師記21章25節のことば「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」とあります。この時代イスラエルの民を導くリーダーが不在で、自分が良いと思うことを行っていた。自分さえよければと言う自己中心な生き方を多くの人々が行っていたのです。サムエルが生まれる時代、イスラエルの民を裁いていたのは祭司エリでした。しかし、彼はもはや神の声を聞く力がありませんでした。3章1節を見ると「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」とあります。神はイスラエルの民に語りたくても、そのことばを聞く者(受け取る者)が不在で、主のことばはまれで、幻も示されなかったのです。また、祭司エリの息子たちは、祭司としてふさわしい働きをしていませんでした。父エリにとがめられても聞く耳を持たない状態でした。指導者が公然と不正をしているのを見て、誰が神のことばとしてその人のことばに耳を傾けるでしょうか。そのような時代にハンナは、子が生まれたらその子を主に仕える者としてささげますと主に祈ったのです。神はハンナの祈りを喜んで受け取り、彼女は約束通り身ごもり、その子を神にささげたのです。

神が私たちに求めることは、私たちが神のことばに耳を傾け、御心を行うと言うことです。サムエル記第一の3章で、少年サムエルが神の声を初めて聴く場面が描かれています。初め、サムエルはその声が神の声だとは分かりませんでした。彼は祭司エリが自分を呼んだものと思い、彼のところに行きました。祭司エリは神がサムエルに語り掛けておられるのを知り、サムエルにこのように言うように教えました。3章9節「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」この時、神がサムエルに伝えたことは祭司エリの家の裁きでした。サムエルはこのことを祭司エリに伝えることを恐れましたが、祭司エリに、隠さずに神のことばを伝えるように言われて、その通りに神のことばを伝えたのです。その後、サムエルが成長し彼のことばが全イスラエルに行き渡ったころ大きな事件が起こりました。4章において、ペリシテ人がエルサレムに攻めてきたのです。この戦いでイスラエルの民が負け、約四千人が野の戦場で打たれたとあります。そこで、この敗北の原因を彼らは話し合いました。4章3節「どうして主は、今日、ペリシテ人の前でわれわれを打たれたのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、その箱がわれわれの間に来て、われわれを敵の手から救うだろう。」彼らの結論は、契約の箱を戦場に持ってこなかったことが敗因であると気づき、契約の箱さえ戦場に持ってくれば、神様が働いて勝利することができると言うものでした。そこで、彼らは契約の箱を戦場に持ってきました。しかし、契約の箱を戦場に持って来ても神様は働かれませんでした。その結果、イスラエルの民三万人が殺され、契約の箱もペリシテ人に奪われてしまったのです。彼らはなぜ、負けてしまったのでしょうか。神はなぜ働いてくださらなかったのでしょうか。その原因は先ほどの士師記21章25節「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」にあります。彼らは神に祈ることもなく、勝手に、契約の箱を持ってきさえすれば神が働いて勝利できると考えたのです。彼らがへりくだって神に助けを求めたのではありませんでした。彼らは反省することなく、勝手な行動を行い敗北を招いたのです。

祈りとは、熱心に自分の願いを唱え続けることではありません。マタイの福音書6章7節「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。」とあります。また、7章21節「わたしに向かって『主よ主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」とイエスは言われました。また、ローマ人への手紙10章17節「そのように。信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とパウロは教えました。日本人が考える祈りとは、自分の願いを神に告げることに重点が置かれ、決して神様の応答を求めるものではありませんでした。しかし、聖書が教える祈りは、神に語り掛けるとともに、神の答えを待ち望むことです。それは、神が人格をお持ちの方であり、私たちに答えてくださる神だからです。イエスは、弟子たちに祈りを教える時、マタイ6章9節「天にいます私たちの父よ。」と呼びかけて祈るように教えています。

またイエスは群衆にこのような例え話を話されました。マタイの福音書13章3節~8節「見よ。種を蒔く人が種蒔きにでかけた。蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽をだした。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。」イエスはこのたとえばなしを弟子たちにこのように説明されました。19節~23節「だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまいます。茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くがこの世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」このたとえ話は、種がまかれる土地について説明しています。道端とは、神のことばを聞く準備のできていない人の心。岩地とは、みことばが生活に結びつかないで、表面的にしか神のことばを理解しようとしない人の心。茨の間に落ちた種は、この世の富や誘惑によってみことばを聞いても実行できない心の人。良い地に蒔かれるとは、神のことばを理解し、実際に行う心を持った人のこと。その人こそ、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ人生を歩む人です。サムエルは罪を犯したサウル王に言いました。サムエル記第一15章22節「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聴き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」祈りとは神との対話と言われます。対話は一方方向では成立しません。神は私たちの祈りに耳を傾けてくださるお方であるとともに、私たちに語り掛けてくださる神様です。神は天地の創り主で偉大な神です。私たちはその神を父と呼ぶ特権をイエスを通して与えられたものです。幼子が父や母に何でも喜んで話しかけるように、親しく神の名を呼んで祈りたいと思います。