神の子イエスの御姿

マタイの福音書17章1節~13節

イエスの姿が山の上で変わられた出来事は、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書の三つの福音書(共観福音書)に記されている出来事です。マタイの福音書17章1節「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネにだけを連れて、高い山に登られた。」とあります。「それから六日目」とは、マタイの福音書16章13節のピリポ・カイサリアでイエスが弟子たちに、人々は人の子をだれだと言っていますかと尋ねられた日を指すものと考えられます。人々はイエスのことを「バプテスマのヨハネ、エリヤ、預言者の一人」と弟子たちは答えました。次にイエスは「あなた方は、わたしをだれと言いますか」と尋ねられました。それに対して、ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と答えました。イエスはペテロのことばを褒めましたが、それは彼自身の考えではなく、父なる神による答えであると言われました。それゆえ、イエスは弟子たちにこの事をだれにも言ってはならないと戒められました。それから、イエスはこれからご自分の身に起こる事、多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえることを示されました。しかし、弟子たちはその事が理解できませんでした。ペテロにいたっては、イエスを脇に引き寄せて「そんなことがあなたに起きるはずがありません」とイエスをいさめています。イエスはペテロを「下がれサタン」と強い口調で叱責し、ペテロの考えが間違っていることを示されました。そのような背景があって、山の上でイエスが本当の御自分の栄光の姿を、三人の弟子たちだけに示されたと考えられます。

イエスが山に連れて行かれたのは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけでした。なぜ、イエスはご自分の本当の姿を現わされるのに、12弟子ではなく、この三人だったのでしょうか。後にこの三人は弟子たちの中でも重要人物になる三人です。また、多くの前にイエスの本当の姿を現わすことは誤解を招くと思われたのでしょう。そこで、この三人だけを選ばれ、さらに、9節「彼らが山を下る時とき、イエスは彼らに命じられた。『あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえられるまでは。』」

と戒められたものと考えられます。

 2節「すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。」とあります。私たちが太陽を直接、目で見ることが出来ないように、イエスの顔と衣は光輝き目を空けて見ることもできないほどの輝きとまぶしさでした。3節「そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。」とあります。モーセは、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」を書いた人物で、イスラエルの民をエジプトの苦しみから助け出した偉大な指導者です。また、エリヤは旧約聖書の預言者の中でも偉大な預言者として、イスラエルの民の中でもたたえられる預言者です。ここで、なぜ、イエスとモーセとエリヤの三人が語り合っていたのかというと、次のペテロのことばと関係があります。この光景を見たペテロはイエスに言いました。4節「主よ。私たちがここにいるのはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ここでもペテロは間違いを犯しています。それは、ペテロがイエスとモーセとエリヤを同じレベルで見ているという事です。それは、先ほどの群衆のことばイエスを「バプテスマのヨハネ、エリヤ、預言者」と同じように見ているのと同じことです。5節「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け』という声がした。」とあります。この「光り輝く雲」は神の臨在を表しています。それゆえ、神はペテロの間違いを訂正するように、モーセやエリヤではなく、イエス・キリストの声に聞き従うように言われたのです。

彼らが山を下るとき、弟子たちはイエスに尋ねました。10節「すると、弟子たちはイエスに尋ねた。『そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。』」旧約聖書に救い主の前にエリヤのような預言者が現れることが預言されています。律法学者たちはそのことを人々に教えていました。11節12節「イエスは答えられた。『エリヤが来て、すべてを立て直します。しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。』」13節「そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。」とあります。イエスはご自分の最後が近づいたことを知られ、弟子たちにご自分が誰であるかを示すために、あえて、三人の弟子を選び、ご自分の栄光の姿を示されたのです。しかし、それでも弟子たちはイエスが神の子、神と同等の存在であることを理解できませんでした。律法学者たちや群衆はイエスにメシヤとしてのしるしを求めたとあります。また、イエスが十字架にかけられた時も、群衆はイエスに対して十字架から降りてみろ、そうしたら信じるからと叫びました。私たちは、しるしや幻を見たら信じるという立場を主張します。しかし、聖書はそれを否定しています。弟子たちがイエスを救い主と信じたのは、使徒の働き2章の時の五旬節(ペンテコステ)の日に弟子たちに聖霊が下ってからでした。イエスも天に昇って行かれる前に「父の約束(聖霊を)」を待つように教えています。(使徒の働き1章4節)また、8節「しかし、聖霊があなたがたに臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあります。実際、「使徒の働き」は、弟子たちを助ける「聖霊の働き」と呼ぶにふさわしい箇所です。先程のペテロの信仰告白も彼自身の考えではなく、父なる神によるとイエスは言われました。私たち罪ある人間は自分の知恵や力では、イエスを救い主と呼ぶことが出来ない者です。私たちがイエスを主と呼ぶことが出来るのは聖霊の働きによるものです。それは、私たちが自分を誇らないためです。「恩寵」という難しい言葉があります。「恩寵」とは、神の一方的な人間に対する慈しみや恵みを表すことばです。今、私たちがイエスのことを神の子と告白できるのは、神の恵みなのです。

イエスが死より復活して弟子たちにその姿を現わされた時(ヨハネの福音書20章24節~29節)トマスはその場にいませんでした。それゆえ、トマスはヨハネの福音書20章25節「トマスは彼らに『私は、その手に釘の跡を見て、釘の後に指を入れ、その脇に手を入れてみなければ決して信じません』と言った。」とあります。26節「八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、『平安があなたがたにあるように』と言われた。27節「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」28節「トマスはイエスに答えた。『私の主、私の神よ。』」イエスはトマスのために姿を現わし、トマスの願う通りに手の傷と脇腹の傷をトマスの前に差し出しました。何という恵みでしょうか。しかし、イエスは彼に言われました。29節「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」人々は、トマスのような奇跡を体験することが幸いだと考えます。しかし、イエスは「見ないで信じる人たちは幸いだ」だと言われました。それは、見ないで信じるとは、神の恵みによって「恩寵」によって信じるという事だからです。奇跡的な体験は時間と共に感動が薄れていきます。しかし、イエスの恵みによる救いは、いつまでも無くなることなく、永遠に続く神の約束であり、私たちの喜びなのです。