神の子イエス・キリストの働き

マルコの福音書1章16節~45節

先週からマルコの福音書から学びを始めました。マルコの福音書は、マタイやルカとは違い、イエスの誕生の話を省略して、旧約聖書の預言者イザヤの預言のことばから書き始めています。その預言のことばは、救い主の前に道をまっすぐにせよと呼びかける者が現れるという預言でした。そして、その預言のことばに従って、バプテスマのヨハネが登場し、悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたというものでした。この個所でマルコが私たちに伝えようとしていることは、イエス・キリストの働きが、旧約聖書に定められた神の計画であるということ。また、そのことをバプテスマのヨハネの働きが証明しているということです。

16節から、イエスの具体的な働きが記されていますが、マルコの福音書の特徴としてその内容が簡潔に記されていることです。マタイの福音書ルカの福音書では、イエスが弟子たちを招く話や会堂での出来事など詳しく書かれています。マルコは、自分の感情や考えを付け加えることなく、ただ事実を忠実に伝えることに専念しているかのように短く書き進めています。ただ、40節からのツァラアトの人をいやす話については、他の福音書と同じように詳しく記しています。そこにはマルコの意図があると思われます。マルコはなぜ、この出来事を詳しく紹介したのでしょうか。

まず、ツァラアトについて、以前、聖書では「らい病」と記されていました。しかし、様々な研究の結果、聖書に記されてきた「らい病」とは、一般的に知らされている「らい病(ハンセン病)」のことではなく、重い皮膚病のことであることがわかりました。そこで、聖書の専門家が協議した結果、聖書において「らい病」という表現を改め、ヘブル語をカタカナで表現してツァラアトと表現することになりました。

ツァラアトという病は旧約聖書の古い時代から恐ろしい病として、人々から恐れられていました。この病に冒された人は、町はずれで生活し、人々との接触を禁じられていました。また、ツァラアトに冒された人は、自分がツァラアトであることを叫びながら外を歩かなければならず、また、彼らが触った物や座ったイスなども汚れた物とされ、人々から差別されて生きなければなりませんでした。また、当時は、ツァラアトの原因が罪を犯した者に下される神の裁きと信じられていたため、人々から罪人呼ばわりされていました。また、この病がいやされた時、それは神から、罪が赦されたことを表し、その人は祭司に見せて、祭司より清いと宣言がなされ、祭壇に定められた犠牲をささげられることによって、正式に病が癒されたことが認められ、社会に復帰できることになっていました。

この出来事は、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書に記されています。ここで三つの福音書に共通することが、このツァラアトに冒された人が、この病をいやしてくださいと頼んだのではなく、「きよくしてください」とイエスに頼んでいることです。ここにツァラアトという病が他の病と違う点があります。先ほどもお話ししたように、ツァラアトは普通の病ではなく、罪を犯した者が神によって罰として、この病が神から与えられたと考えられていました。それゆえ、この病が癒されるためには、神の赦しが必要だということです。この出来事で大切なことは、このツァラアトに冒された人が、イエスにはこの病をいやす権威がある、人の罪を赦す権威がある、イエスが神と同等の権威があることを認めて、イエスに40節「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」とお願いした点にあります。彼がどうしてイエスにそのような権威があることを認めたのかはわかりませんが、彼にとって、この病をいやすことができるのは、イエス・キリストしかいないと信じて、イエスに近づいたものと考えられます。イエスは彼の信仰を見て41節「イエスは深くあわえみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。」と言われました。42節「すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。」とあります。それだけではなく、イエスは彼に44節「そのとき彼に言われた。『だれにもなにも話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証のために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。』」イエスはここで彼に二つのことを命じています。一つは「このことをだれにも話さないように」イエスの働きは人の病をいやすことではありません。神のことを宣べ伝えることがイエスの第一の働きでした。病の癒しは、イエスが彼らを哀れまれて行われたことです。しかし、病の癒しがどんどん広がることによってイエスの働きが妨げられないように、このことをだれにも話さないように戒められたのです。しかし、彼はこの命令を守ることができずに、人々に話してしまいました。それゆえ、イエスが表立って町に入ることができなくなったとあります。もう一つの命令は、ツァラアトが癒されたことを祭司に報告して、正式に祭司からツァラアトが癒されたことが認められ、聖書に定められた犠牲を神にささげるように命じました。この事はイエスが旧約聖書の教えを神の戒めであることを認め、それを重んじていることを表しています。イエスは決して旧約聖書の教えを否定したのではなく、祭司やパリサイ人が神の戒めを間違って理解し、人々に教えていることを批判したのです。

この個所で大事なことは、ツァラアトに冒された人が、イエスに「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」と申し出たことです。当時、ツァラアトは罪を犯し神から罰としてこの病が与えられたと信じられていました。それゆえ、この病をいやすことができるのは神だけだと信じられていました。それゆ、彼がイエスに、この病をきよめることができますと告白したことは、彼がイエスに神と同等の権威があることを認めたということです。この時、弟子たちを含め、多くの人たちは、イエスの奇跡の力は認めてはいました。それゆえ、イエスを預言者や奇跡をなす人とは理解されていましたが、神と同等の権威(罪をを赦す権威)があるとは理解していませんでした。しかし、彼は、イエスにツァラアトをきよめる権威(神の権威)があると認めてイエスにきよめてくださいと申し出たのです。これこそ彼のイエスに対する信仰告白でした。イエスは彼の信仰告白を受け入れ、彼の病をいやされたのです。

マタイの福音書16章13節で、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだといっていますか。」と尋ねられました。弟子たちは、バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人だと言っていますと答えました。次にイエスは15節「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と尋ねました。15節「シモン・ペテロが答えた。『あなたは生ける神の子キリストです。』」イエスは彼に答えられました。17節「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」この個所から私たちがイエスを神の子キリストと告白するには、神の助けがいるということです。群衆はイエスの奇跡を見て、預言者、奇跡をおこなう者とは理解できても神の子とは理解できませんでした。しかし、このツァラアトに冒された人は、イエスにはこの病をいやす力、きよめる力があると信じてイエスの前に現れたのです。そこに彼のイエスに対する信仰が表され、イエスもその信仰に対して彼の病をいやされたのです。それゆえ、この場面はただ単にイエスが病をいやす力があるということではなく、イエス・キリストは神の子であることの証明として、このツァラアトの人の病をいやしきよめられたということをマルコは私たちに伝えようとしているのです。