父と子と聖霊なる三位一体の神

使徒の働き1章3節~8節

今日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)の特別な礼拝の日です。イエスが死より三日目に復活された後、イエスは弟子たちに使徒の働き1章4節5節で、このように命じられました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」8節「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

そして、使徒の働き2章の五旬節の日(ペンテコステの日)に弟子たちに聖霊が下り、皆が聖霊に満たされて、外国の言葉で、しゃべり出しました。そこに集まっていた外国人たちは、弟子たちが自分の国の言葉でしゃべり出したのを聞いて、びっくりしました。また、その外国の言葉がわからないユダヤ人たちは、弟子たちが酒によっぱらっているのだと、彼らをあざ笑いました。そんな中、ペテロは弟子たちを代表して、初めて群衆にイエスのことを説教しました。それを聞いた人々は心を痛め、自分の罪を告白して、弟子たちから洗礼を受けました。その日だけで三千人が洗礼を受けたと記されています。人々を恐れて部屋に隠れていた弟子たちに、聖霊が降ると彼らは変えられ、イエスの復活を宣べ始めたのです。そして多くの人々が弟子たちの仲間に加わりました。それゆえ、この時こそが、教会の誕生の日と言われています。

1、三位一体について

今、私たちは神の特別な性質として、神が「三位一体」なる神であることを信じています。しかし、聖書の中にはこの「三位一体」という言葉はでてきません。この言葉はAD250年から300年ころに使われるようになったと言われています。しかし、この言葉がなくても、弟子たちは、神の性質として「三位一体なる神」を信じていました。「三位一体」とは。一つの神の中に三つの人格「父なる神と子なるキリスト、聖霊なる神」が存在しているという考え方です。なぜ、この考え方が大切なのかと言えば、旧約聖書は創造主以外の神を認めていません。「神は唯一の存在」です。しかし、新約聖書において、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)聖霊なる神の三つの神を認めています。するとそこに旧約聖書と新約聖書の間に矛盾が生じます。そうすると私たちはここで、どちらかを選ばなくてはならなくなります。父なる神が唯一の神であるなら、イエスと聖霊を神ではない存在として認めなければなりません。または、旧約聖書を捨てて、新約聖書だけを神のことばと信じ、父なる神、子なる神、聖霊の神の三つの神を信じるという考え方です。しかし、イエスは、律法学者パリサイ人たちの教えは否定しましたが、旧約聖書自体は、神のことばと信じていました。では、この矛盾を解決し、旧約聖書と新約聖書を一つに繋ぐためにはどうしたらよいでしょうか。そこで、考え出されたのが、「三位一体」という神の特別な性質です。この事はカトリック教会、プロテスタント教会が共に信じている大切な信仰告白です。「三位一体」という考えを受け入れない場合、父なる神が唯一の神であるなら、イエスの十字架の死による救いが無くなってしまいます。イエスが神(神の子)であるがゆえに、イエスの死は私たちすべての者の身代わりになるのであり、イエスが神でないなら、私たちの罪の身代わりにはなりえません。それゆえ、私たちはイエス・キリストを神(神の子)と信じ、イエスの十字架の死によって罪が赦された者になり、天の御国に迎え入れられることを信じているのです。

2、聖霊の働き

神は「三位一体」の神ですが、それぞれに役割の違いがあります。父なる神は創造主、イエス・キリストは贖い主、聖霊は私たちの心の中に住み私たちを導く助け主です。イエスが弟子たちから離れ、父の御許に昇られる前に、弟子たちにこう言われました。ヨハネの福音書14章16節~18節「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えてくださり、その助け主がいつまでもあなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもできないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻ってきます。」私たちは、父なる神がどこに住んでいるのかわかりません。また、イエス・キリストも父なる神の御許に昇って行かれました。しかし、イエスは弟子たちにあなたがたを孤児にはしないと言われました。また、戻ってくるともいわれました。そして、聖霊が私たちの内に住まわれると約束してくださいました。旧約聖書において神と人間との間には大きな隔たりがありました。イスラエルの民にとって、神が人として生まれたり、人の中に住まわれるなど考えられなかったでしょう。しかし、神はひとり子を私たちの罪の世界に誕生させてくださいました。それと同じように、聖霊なる神も、私たち罪人の心の中に住み、私たちを助け導いてくださるのです。聖霊が私たちの内に住むということは、神が共におられる、イエスが共におられると同じ意味があります。ヨハネの黙示録3章20節「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聴いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。聖霊は、使徒の働き2章のペンテコステの日に弟子たちに降りました。しかし、聖霊はその時だけ弟子たちに降ったのではなく、今も、私たちの内に住んでくださいます。しかし、先ほどのことばのように、私たちはイエス・キリストを神の子と信じ、心を開いて聖霊様に入っていただかなければなりません。聖霊が私たちの内側に住んでくださっている証拠は、弟子たちのように異言をはなすことではありません。聖霊が私たちの心に住んでいる証拠は、私たちがイエスを主と告白する信仰告白にあります。聖書には、聖霊によらなければ、イエスを主と告白することはできないとあります。それゆえ、私たちがイエスを主と告白して洗礼を受けたということは、すでに聖霊が私たちの内側に住んでおられることの証拠なのです。イエスが弟子たちから離れて天の父のもとに行かれると言われた時、弟子たちは不安に思ったことでしょう。しかし、イエスはご自分の代わりに、聖霊を遣わし、その聖霊がいつまでも弟子たちと共におられると約束してくださいました。そして、その約束がペンテコステの日に現実となったのです。そして、弟子たちは勇気をもって外に飛び出し、イエスが死よりよみがえったことを強く証しし出したのです。私たちも、イエスを主と告白するまでは、イエスを神の子と信じることができませんでした。しかし、イエスが約束された聖霊が私たちの心に住まわれるとき、弟子たちと同じように、処女降誕、死からの復活と昇天を信じることができるのです。それは、自分の力で理解したというのではなく、聖霊の力によって信じる力が与えられたということなのです。それゆえ、私たちにとって、弟子たちに約束の聖霊が与えられたペンテコステの日は特別な日なのです。