マルコの福音書1章1節~15節
先週は、マルコの福音書の著者マルコについて学びました。これからしばらく、マルコの福音書から学びたいと思います。マルコはお金持ちの家庭で生まれました。また、マルコの家は大きくエルサレム市内にあり、イエスや弟子たちがその家で集会を開いていました。それゆえ、マルコは青年のころから、イエスや弟子たちとの交わりがあり、福音を聞いて育ちました。また、バルナバはマルコのいとこにあたり、バルナバはマルコをアンテオケ教会に連れてきて、パウロと共に伝道旅行にでかけました。ところが、まだ、宣教師としての自覚が乏しく、宣教の困難に耐えることができずに、マルコは途中でエルサレムの実家に帰ってしまいました。また、パウロがバルナバを二回目の伝道旅行に誘ったとき、バルナバはもう一度マルコを連れて行こうとしましたが、パウロが強く反対したため、二人は別々に出かけることになりました。その後。一度は、宣教の困難のために実家に帰ったマルコでしたが、バルナバの助けによって成長し、パウロやペテロの良き協力者となりました。また、マルコはペテロから聞いた話をまとめて、マルコの福音書を書いたと言われています。
イエスの生涯を描いた書物を「福音書」と呼びますが、福音書は、マタイ、マルコ、ルカ,ヨハネの四人によって書かれました。それぞれ書かれた目的が違うために、同じイエスの生涯でも、少しづつ違いがあります。マタイはユダヤ人にイエス・キリストが救い主であることを伝えるために、イエス・キリストの系図から書き始めました。また、旧約聖書の引用を多く用いています。ルカは、ローマの高官、または、地位の高い人にイエス・キリストを伝えるために書いたと言われています。また、ルカは、医者であり歴史家でもあると言われています。ルカはイエスと直接、出会った人物ではありませんが、直接現地に赴き、使徒たちやイエスの母マリヤから話を聞いて福音書を書いたと言われてます。ヨハネは使徒の一人ですが、晩年になって、イエスのことを回想してヨハネの福音書を書いたと言われています。順番から言えば、マルコによる福音書が一番最初に書かれました。
マタイの福音書ルカの福音書は、イエス・キリストの誕生のお話から始めていますが、マルコは預言者イザヤのことばと、バプテスマのヨハネの話から始めています。また、このイザヤ書の預言とバプテスマのヨハネの話は、マタイの福音書、ルカの福音書にも紹介されています。マルコはイエスの誕生の話を飛ばして、いきなり、預言者イザヤのことばを紹介し、そのことばの成就(完成)としてバプテスマのヨハネが登場したことを伝えようとしているのです。実は、マルコの福音書1章2節のことばは、マラキ書3章1節のことばの引用です。そして、マルコの福音書1章3節のことばがイザヤ書40章3節のことばの引用となっています。預言者イザヤはイエスが生まれる約750年前の預言者で、マラキは450年前の預言者です。旧約聖書の最後はマラキ書で終わっていますが、その後、約450年間、空白の時間があり、新約聖書へと繋がっています。ユダヤ人は、この二人の預言者の約束を信じ、救い主の前に登場する人物と救い主を長い間、待ち続けたのです。そして、その預言のことばを実現する者がバプテスマのヨハネで、その次に登場したイエス・キリストこそ、ユダヤ人たちが長い間、待ち望んだ救い主であると、マタイもマルコもルカも証言しているのです。
イザヤの預言で紹介されている、救い主の前に登場する者は3節「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」と叫ぶ声だと紹介しています。バプテスマのヨハネはどういう意味で、救い主の前に道をまっすぐにする者となったのでしょうか。バプテスマのヨハネが行ったことは、ユダヤ人に罪を教え、罪の赦しのためにバプテスマ(洗礼)を受けるように呼び掛けたことでした。当時のユダヤ教の指導者、律法学者やパリサイ人は、我々は、アブラハムの子孫であるか罪は無いと教えていました。また、ユダヤ人以外の民族は汚れた民であり、彼らと関わることを禁じていました。バプテスマのヨハネは、そのようなユダヤ教の社会に対して、我々ユダヤ人も神の前に罪があるので、その罪を取り除くために洗礼を受けるように人々に教えたのです。実際、ユダヤ教の教えにも、洗礼を受けて罪を取り除く儀式は存在していました。しかし、それは、異邦人(ユダヤ人以外の民)がユダヤ教に改宗するときに、今までの汚れを落とすために洗礼が行われていたので、ユダヤ人が洗礼を受けるということはありませんでした。その儀式をバプテスマのヨハネは、アブラハムの子孫であるユダヤ人も洗礼を受けなければ、救われないと教え始めたのです。それを聞いた人々は、自分の罪が指摘され、多くの者たちが、バプテスマのヨハネの所に来て洗礼を受けたのです。しかし、バプテスマのヨハネは救い主ではなく、救い主の前に道をまっすぐにする者でした。私たちの罪を完全に取り除くためには、真の救い主であるイエス・キリストの登場を待たなければなりませんでした。また、イエス・キリストがバプテスマのヨハネから洗礼を受けると、天が裂けて御霊が鳩のように降って、天から「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」いう声があったことをマタイもルカも記しています。
この出来事は、私たちの罪が赦されるために、自分の罪を認めて、悔い改めイエスの名によって洗礼を受けなければ救われないことを表しています。イエス・キリストは、なぜ、神であられたのにその神の姿を捨てて、人として生まれてくださったのでしょか。また、イエス・キリストは一度も罪を犯されなかったのに、なぜ、十字架に付けられて死なれたのでしょうか。それは、すべて私たちの罪を取り除き、天の御国に私たちを招くためでした。もし、私たちが自分の力で罪の問題を解決し、自分の力で天の御国に入ることができたなら、イエス・キリストは人として生まれることはなかったでしょう。また、十字架に付けられて殺されることもなかったでしょう。すべて、イエスの誕生と十字架の死は私たちを罪から救うための神の恵みでした。それゆえ、今、神が私たちに望むことは、私たちが自分の罪を認めて悔い改め、イエスの御名によって洗礼を受けることです。マルコはマルコの福音書の初めに
「神の子、イエス・キリストの福音の初め。」と書きました。「福音」とは、良き訪れの知らせと言う意味です。旧約聖書の時代ユダヤ人たちは、律法(旧約聖書の戒め)を守ることによって天の御国に入れると信じて、熱心に律法を学び実行しました。しかし、彼らの熱心は自己満足となり、他者を蔑むようになりました。また、彼らは、神の戒めの外側、形だけを守ることで満足し、神の御心からそれてしまいました。そこで、神は、神のひとり子イエスを人として遣わし彼らの間違いを指摘しました。しかし、彼らは、イエス・キリストの教えを拒否し、自分たちの教えを守るために、イエス・キリストを十字架に付けて殺してしまったのです。しかし、それも神の御心でした。神は、イエスを死より三日目に復活させることによって、私たちの行いではなく、イエスを神の子と信じる信仰によって救われる道を完成してくださったのです。今は、律法の時代ではなく、神の福音による恵の時代です。あなたは自分の罪の問題をどのように解決することができるでしょうか。私たちは、生きている間に、自分の正しさ、努力によって天の御国に入ろうとするのか、イエスを神の子と信じる信仰によって天の御国に入るのかを決めなければならないのです。