「神の愛と罪の赦し」ルカの福音書7章36節~50節
あるパリサイ人がイエス様を食事に招きました。しかし、彼がイエス様を食事に招いたのは、イエス様に対する尊敬とか感謝ではなく、近頃、巷で有名になり始めたイエスとはどのような人物なのかを見極めるために食事に招いたようです。するとその席にそぐわない、その町で罪深い女(不道徳な女)として有名な女性が突然現れ、イエス様の後ろに座り、イエス様の足に香油を泣きながら塗り、自分の髪で拭い始めました。集まっていた人々は驚いたことでしょう。しかし、ここでイエス様を招いたパリサイ人はこう思いました。39節「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるのか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」イエス様は彼の心の中を見抜いて、彼に質問しました。41節、42節「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」パリサイ人のシモンが答えました。43節「よけいに赦してもらったほうだと思います。」
そして、イエス様は彼とこの女性とを比較して言いました。44節でイエス様は彼が足を洗うための水を出してくれなかったと言いました。当時、お客様を招いた場合、まず初めにお客様の足を洗うために水を出すことは当たり前のことでした。ところがこのパリサイ人はイエス様に足を洗う水を出しませんでした。と言うことは、このパリサイ人はイエス様に対して客として扱っていないこということです。それに引き換え、この女性はイエス様の汚れた足を涙で拭って香油を塗り自分の髪の毛で拭いました。そこに、彼女のイエス様に対する感謝の気持ちが表されています。また、パリサイ人はイエス様に対してあいさつとして口づけをしませんでした。当時の習慣で口づけをすることは親愛の情を示す行為でした。このパリサイ人は親愛を込めたあいさつもしませんでした。しかし彼女は、イエス様の足に口づけしてやめませんでした。ここにも彼女のイエス様への感謝の気持ちが表されています。また、このパリサイ人はイエス様の頭に香油を塗ってくれなかったとイエス様は言っています。当時の習慣でお客の頭に高価な香油を塗ることは最高のもてなしとされていました。このパリサイ人はそのこともしませんでした。ところが、この罪深い女性は、イエス様の足に高価な香油を塗りました。イエス様はこの二人の行為を比較して、47節「この女は多くの罪が赦されている」と言いました。この女性は罪が赦されるためにイエス様の足に香油を塗ったわけではありません。すでに、多くの罪が赦された喜びとして、彼女は自分ができる最高の感謝の気持ちをイエス様に表したのです。しかし、このパリサイ人にはそのような感謝の気持ちは見えません。それゆえ、「少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」と彼に言われたのです。ここで、イエス様が言わんとしたことは、「あなたはどれだけの大きな罪が赦されましたか」ということです。私たちの罪はイエス様の十字架によってすでに赦されています。つまり、大きな罪を犯した人ほど、イエス様がその人のために、大きな代価を支払ってくださったことを感じているということです。しかし、小さな罪しか気が付かない人にとっては、イエス様がしはらった代価も小さくなってしまい、感謝の気持ちも小さくなるということです。多くの罪を赦された人ほど神様への感謝が大きく表され、罪の自覚のない人には、神様の愛も小さくしか感じません。そこに、神様の愛の大きさと罪の自覚の関係があるのです。
イエス様に選ばれた12名の使徒たち。そのうちのイスカリオテ・ユダはイエス様を裏切り、罪の重荷に耐え兼ね首を吊って死にました。また他の使徒たちは、イエス様が捕らえられた時、イエス様をひとり置いて逃げて行ってしまいました。ペテロは、イエス様の裁判のところまで行きましたが、イエス様を知らないと三度も自分がイエス様の弟子であることを否定してしまいました。その後、イエス様は復活して、弟子たちの前に姿を現わされました。しかし、イエス様は弟子たちを責めませんでした。彼らはこれによって、罪がイエス様に赦されたことを体験したのです。ペテロに至っては、イエス様は三度、わたしを愛しますかと声をかけてくださいました。ペテロはこのイエス様の語りかけによって、イエス様を裏切った罪が赦されたことを体験したのです。
また、世界中にイエス様の救いを伝える基礎を築いたパウロも、初めはキリスト教を迫害する人でした。彼は、十字架に付けられて殺されたイエスを救い主と受け入れることができませんでした。また、弟子たちがイエス・キリストが甦ったという嘘を赦せませんでした。それゆえ、パウロは神様に熱心であるがゆえにキリスト教を激しく迫害したのです。ところが、彼がキリスト者を捕らえるためにダマスコに行く途中、復活されたイエス様と出会い、弟子たちの言葉が真実で、自分が間違っていたことに気付かされました。そこで、彼は洗礼を受け、新しいクリスチャンとして生まれ変わり、イエス様の復活を宣べ伝える者に変えられたのです。本来ならば、キリスト教を迫害した者です。神様から罰を与えられてもおかしくないのに、神様は自分を救ってくださっただけではなく、異邦人の宣教へと向かいように新しい使命を与えてくださった。パウロはどんなに喜んだことでしょう。
ここまで、救いの喜びについて、お話をしてきました。それでは、皆さんの罪の自覚、罪の大きさはどれぐらいでしょうか、考えてみましょう。また、その大きな罪が、イエス様のあの十字架の死によってすべて赦されたのです。私は初め、自分の罪の大きさがわかりませんでした。しかし、聖書を学び、礼拝に参加するにしたがって自分の罪に気付かされました。そして、洗礼を受けました。しかし、その時の罪の自覚は小さなもので、自分の罪がイエス・キリストを十字架に付けて殺すほど大きな罪だとは気づいていませんでした。しかし、信仰生活を続けていくうちに、段々と罪の意味がわかり、自分の罪の大きさがわかるようになりました。私は自分が求めて教会に来たわけではありません。代々木公園で写真を撮っている時に、宣教師のグループに声をかけられて、教会に来ました。それも、いやいやでした。しかし、そこでゴスペルを聞いて、心に何か暖かいものを感じ、涙が出る体験をしました。そこで、はじめて新約聖書を手にして、真剣に聖書を読みました。また、その時から礼拝にも参加するようになりました。それまで、教会に行ったことも、聖書を読んだこともありませんでした。神様がその時、宣教師のグループを通して私を無理やり教会に連れて来なければ、今の私はありませんでした。ヨハネの福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」とあります。これが私の献身の時に受けた御言葉です。まさに、私が神様を選んだのではなく、神様が私を選んでくださった。それも、みことばを語るように牧師として選んでくださったことを知り、牧師の道を歩む決心をしました。牧師も宣教師もまた、様々な形で神様のために働く人にはかならず、罪が赦された喜びがあります。この喜びが、海を超えさせ、また、苦難を乗り超える時の原動力となるのです。