ルツ記1章1節~5節
神の祝福とは、苦しみや悲しみもなく、病気や禍もない恵まれた状況を考えます。しかし、聖書を見るなら、そうではないことが分かります。今日取り上げるナオミという女性は、夫を失い二人の息子をも失うという悲しみの時を通りました。なぜ、彼女はこのような苦しみを通らなければならなかったのでしょうか。彼女はこの苦しみをどのように受け止めたのでしょうか。また、神はこの不幸な女性をどのように祝福されたのでしょうか。神を信じる者に対する神の取り扱いを考えます。
ルツ記1章1節「さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。」とあります。モアブの国は死海を挟んで右側に位置する国で、ベツレヘムから歩いて三日ほどの位置にあります。イスラエルの国とモアブの国は対立する時もありましたが、友好な時代もありました。ナオミたちが飢饉を避けてモアブの国に移住する時は、友好な関係を保っていたのでしょう。とはいえ、家族を連れて外国に移住することは大変なことです。ナオミの家族はそれを知りながらも、生きるために移住という大きな決断をしてモアブの国にやって来たのです。2節3節「その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。するとナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。」とあります。外国の地において夫を失うとは、どれほどの悲しみと苦しみでしょう。それに、二人の息子を養わなければなりません。彼女に背負わされた重荷や苦しみはどれほど大きかったことでしょう。聖書はナオミの苦しみについては何も記していません。しかし、二人の息子が成長しそれぞれがモアブの女性と結婚することで、その重荷は報われたように思います。4節「二人の息子はモアブの女性を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。」とあります。しかし、その幸せも長くは続きませんでした。5節「するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後にのこされた。」とあります。夫だけではなく、二人の息子を失ったナオミはどれ程大きな悲しみに包まれたことでしょう。ことばに表せば「絶望の極み」です。生きる力を失うほどの悲しみではないでしょうか。それでもナオミは一つの良い知らせを聞きました。それは、自分が生まれ育った国が神によって豊かさを取り戻したという知らせです。ナオミはモアブの地で身内を失ってしまいました。彼女は自分が生活する最後の場所としてベツレヘムに帰ることを決心したのです。そこで、ナオミは二人の嫁と別れる決心をしました。それは、彼女の二人に対するやさしさです。自分がベツレヘムに帰っても生活する基盤がありません。自分一人なら何とか生活できても、二人の嫁を養うことは出来ません。それよりも、二人がモアブの地に留まり、そこで再婚するほうが二人に幸せだと考えたのです。オルパはナオミのことばに従って、彼女との別れを選びました。しかし、ルツは違いました。彼女はナオミと一緒にベツレヘムへ行きたいと彼女に懇願したのです。16節17節「ルツは言った。『お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まわれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこで葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。』」これはルツの信仰告白です。ルツは国を捨て、モアブの神々を捨て、イスラエルの神を自分の神とすると告白したのです。彼女がこのような信仰告白ができたことは、ナオミの信仰の影響と考えられます。ナオミはルツの決心を見て、共にベツレヘムに帰ることを決心しました。二人がベツレヘムに帰ると、二人の事で町中が騒ぎ出したとあります。ある女性は彼女に対して「まあ、ナオミではありませんか」と言ったとあります。ナオミは彼女に言いました。20節21節「私をナオミ(快い)と呼ばないで、マラ(苦しむ)と呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわさたのですから。私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」これはナオミが自分の気持ちを素直に表したことばです。しかし、ナオミの家族がモアブに行くときに満ち足りていたとは考えられません。また、彼女は素手で帰されたとありますが、ルツという義理の娘を伴って帰ってきました。神はこのルツを通して、ナオミを祝福する準備をすでにベツレヘムで備えておられたのです。
ルツ記2章において、ルツとボアズの出会いが記されています。ルツは生活のために落穂拾いに出かけました。イスラエルの国では、貧しい者が畑に落ちた落穂を拾い集めることは律法(神の戒め)によって守られていました。ルツは図らずもボアズの畑に落穂を拾いに行ったのですが、ボアズはエリメレクの一族に属する者でした。先程「図らずも」ということばを使いましたが、ルツにとっては「図らずも」でしたが、それは神の計画でした。ボアズはエリメレクの親族で、エリメレクが亡くなった後、親族を助ける責任のある親族でした。ボアズはこの時その事に気づきませんでしたが、ルツを見て親切に対応しました。ルツはたくさんの大麦を持ってナオミのもとに帰りました。ナオミはルツが集めた大麦に驚き、どこの畑に行ったかを聞きました。ルツがボアズという人の畑に行ったことを告げると、ナオミは驚きました。ルツ記2章20節「ナオミは嫁に言った、『生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主が、その方を祝福されますように。』ナオミは、また言った。『その方は私たちの近親者の者です、しかも、買戻しの権利のある親類の一人です。』」「買戻しの権利のある親類」とは、こどもを残さず、夫を失った女性を助けるために、近い親族が残された土地を買戻し、また、残された女性を妻に迎え子を得ることによってその家族を助けるというイスラエルの国の制度です。ナオミはボアズにその事を気づかせるために、ルツに晴れ着を着せて、夜ボアズのもとに行くように命じました。ボアズは自分が寝ている足もとにルツが横たえているのを見て驚きました。ルツはボアズに言いました。ルツ記3章9節「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。あなたは買戻しの権利のある親類です。」ボアズは、ルツの願いを受け入れ、彼女を妻に迎えることを決心しました。信仰深いイスラエル人が外国人のモアブの女性を妻に迎えることは異例な事だったでしょう。しかし、ボアズはルツの決断(国を捨てて義理の母であるナオミについてイスラエルの国に来たこと)を知り、彼女を妻に迎えることを決心したのではないでしょうか。また、その背後に神の手がある事を見ます。ボアズとルツは結婚しオベデを産み、オベデはダビデの父エッサイを生んだとあります。マタイの福音書1章にイエス・キリストの系図が示されていますが、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、エッサイがダビデを生んだとあります。
ナオミは夫を失い、二人の息子を失いましたが信仰を捨てることはありませんでした。彼女は苦しみの中にあっても、希望を失ったり、神に対して不満のことばを口にしなかったのではないでしょうか。その彼女の信仰の強さを見て、ルツはナオミの信じる神を自分の神として信じる決心をしたのではないでしょうか。世界中には色々な宗教がり、神々を崇めています。その多くがご利益宗教で経済的な祝福や奇跡を求める自己中心な宗教が多くあります。しかし、キリスト教は神が中心です。病も苦しみも神から与えられます。しかし、そこには神のご計画があり、神はいたずらに苦しみを与えられる神ではありません。ナオミは夫と二人の息子を失いましたが、神を捨てることはありませんでした。彼女もモアブの神を信じることもできたでしょう。しかし、ナオミは苦しみの中でも神から離れませんでした。ルツもモアブの女性としてモアブの神々を選ぶこともできたでしょう。しかし、彼女はナオミの信じる神を自分の神として選んだのです。神はこの二人の女性を無視することなく、大きな祝福で迎えたのです。トンネルの中を車で走っていると、長く感じます。どこまで行ってもトンネルは続きます。次第に不安は強くなり、永遠に出口が見つからないように思う時があります。しかし、出口のないトンネルはありません。人生も同じように苦しみが長くなると不安が強くなり、出口がないような失望感に襲われることがあります。しかし、神は私たちの事をよくご存じです。コリント人への第一の手紙10章13節「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」苦しみや悲しみの無い人生はありません。死が全ての人にある以上、死別や悲しみはあります。しかし、その苦しみや悲しみの中でも、神がともにおられることを信じる時、心に平安と神からの慰めを受けることができるのです。