神様からのクリスマスプレゼント

ヨハネの福音書3章16節

今年もアドベントがはじまりました。アドベントはクリスマスを迎えるための準備の期間と言われています。先週、私たちは教会堂を掃除し、クリスマスの飾りつけを行いました。これもクリスマスを迎える準備ですが、私たちの心の準備はどうでしょうか。心の準備とはクリスマスの意味を考え、正しくクリスマスを迎えることです。では、正しくないクリスマスの迎え方とはどのような迎え方でしょうか。

1、イエス・キリストが存在しないクリスマス

私の両親はクリスチャンではありませんでした。それでも、家族で集まってクリスマスを楽しみました。私の家族のクリスマスの主役は、クリスマスケーキでした。父は甘いものが好きで、いつも、クリスマスには二種類のケーキを買って来ました。一つは普通のクリスマスケーキ、もう一つは、アイスクリームで出来たクリスマスケーキでした。料理もターキーではありませんが、鶏肉の料理など普段とは違う豪華な料理を食べました。そして、もう一つの楽しみがクリスマスプレゼントでした。それもサンタクロースがプレゼントするのではなく、父が子どもたちの好きな物をプレゼントするというやり方でした。また、食事の後、家族でトランプをすることもありました。それは、家族のだんらんのひとときで、私にとって楽しい思い出でです。しかし、イエス様は不在でした。

また、それも長くは続きませんでした。私たち兄弟が大きくなると、それぞれの付き合いがあり、いつのまにか家族でクリスマスを過ごすことが無くなってしまいました。今、考えると両親はさみしい思いをしたのではないかと思います。私が社会人に成ってからのクリスマスは、お酒を飲む場になっていました。仕事が終わると会社主催のクリスマス会があり、それが終わると、各部署で開かれる二次会があり、それが終わると、仲間内で三次会に出席するというありさまでした。家に帰るのは朝の3時4時でした。その日は二日酔いで昼まで寝ていました。それはそれで楽しい時間でしたが、クリスマスとは名ばかりで、お酒を飲んで騒ぐための集まりで、これもイエス・キリストの誕生と関係のないクリスマスでした。

2、イエス・キリストが主役のクリスマス

私は、代々木公園で伝道していたクリスチャンのグループに誘われて、教会に通うようになりました。その後、その年の10月に洗礼を受けました。それ以前の私の生活は、何のために生きているのか分からない生活で、ただ、お金をためて成功した人になりたいと漠然と考える青年でした。しかし、教会に通うようになり、神がおられること、また、私たちは神に創られたこと。今、自分の力で生きているのではなく、神に生かされていることを知り、新しい生き方に変えられました。また、教会で新しい関係が生まれ、楽しい教会生活を送っていました。そんな中、クリスマスが近づき、青年会でイエス・キリストの降誕劇を教会でやることになりました。その劇の中で私はヨセフの役をやることになりました。そのために、毎週日曜日、礼拝の後、劇の練習などで忙しい日々を迎えました。クリスチャンになって初めてのクリスマス礼拝の日、心に感動があり涙が流れそうでした。牧師先生の話を聞いて、本当に私の救いのためにイエス・キリストがお生まれになったことを確認することが出来ました。私にとって生涯忘れることのできないクリスマスとなりました。

3、クリスマスの意味

 ヨハネの福音書3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。ここで「ひとり子」とは、イエス・キリストのことです。神は、私たちを愛し、私たちを罪から贖うため(救うため)に、ひとり子であるイエス・キリストをこの地上に人として誕生させてくださいました。これがクリスマスです。父親にとって子は何にも代えがたい大切な存在です。それなのに、神はご自身のひとり子を、王様や高貴な身分としてではなく、ただの大工の子として誕生させました。また、その目的は人々の罪を背負わせていのちを犠牲にさせるためでした。岩渕まことさんの有名な曲に「父の涙」という曲があります。それは、十字架の上で苦しみを受けられるイエス・キリストを見つめる父の悲しみを歌った曲です。子の苦しみを見て平気な親はいません。しかも、それは、私たちの罪のために神自らが選ばれた究極的な選択でした。ここに神の愛が現わされており、クリスマスの中心のメッセージです。

また、イエス・キリストの十字架の死は、私たちが受ける罪による滅びから救われる唯一の方法でもあります。先の聖句で言われている「永遠のいのち」とは、この地上で永遠に暮らす命のことではありません。また、死んでから天国で永遠に暮らす命のことでもありません。イエス・キリストこそが永遠のいのちであり、イエス・キリストを神の子と信じた者に与えられる神の賜物(プレゼント)です。分かりやすく言えば、神との親しい関係の回復という意味です。神が創造された世界は完全でした。しかし、初めの人アダムとエバは罪を犯し、神から退けられてしまいました。神はこの人類の罪の問題を解決するために、神のひとり子イエス・キリストを人として誕生させました。また、十字架で命を奪い、三日目に死より復活させることによって罪の問題を解決されたのです。もし、イエス・キリストの誕生がなければ、私たちはどのように自分の罪の問題を解決できたでしょうか。ユダヤ人は律法(神の戒め)を守ることによって神に認められる正しい人になろうと努力しています。日本人は罪の清めのために、手を洗ったり、滝に打たれて修行することによって清くなろうと努力する人もいます。そのように、人間の努力や苦行によって罪の問題が解決されるなら、神はイエス・キリストをこの地上に送らなかったでしょう。罪とはそんなに軽いものではありません。旧約聖書の時代、イスラエルの民は自分の罪の身代わりとして、牛や羊を全焼の生贄としてささげました。しかし、動物の血(いのち)では、人間のいのちの代わりにはなりませんでした。それは、人間のいのちでも同じことです。すべての人のいのちの代価は一度も罪を犯したことのない者のいのち、すなわち神のいのちがささげられなければなりません。しかし、神は私たちのような肉体が無く、死ぬこともありません。それゆえ、神であり人でなければ私たちの身代わりになることはできません。それゆえ、神の子である、イエス・キリストが神の姿を捨てて、ひとの子として誕生し、いのちをささげてくださったのです。クリスマスは父なる神様が私たちの救いを完成するために、神の子イエス・キリストを一人の人間として誕生させられた日です。それは、神様から私たちへのクリスマスプレゼントです。また、救いは誰にでもただで与えられる恵みです。ぜひ、今年のクリスマス、私たちの救いのために誕生された、イエス・キリストの誕生を心から喜びましょう。また、この神様からの救いのクリスマスプレゼントを一人でも多くの方が受け取られますようにお祈りします。