マルコの福音書2章1節~17節
先週はイエスの権威について学びました。イエスの教えは律法学者たちとは違い権威ある教えで、人々は驚いたとあります。また、悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出されたのを見て、悪霊さえも従わせるイエスの権威に人々は驚きました。ツアラアトに冒された人をきよめる(いやす)ことによって、イエスが神から罪をきよめる権威が与えられていることを学びました。
1、 人の罪を赦す権威(マルコの福音書2章1節~12節)
イエスが再びカペナウムに戻られると、その噂を聞いた人々がイエスのもとにたくさん集まってきました。そのため家の中に入れないほどになりました。そこに、中風(脳梗塞、脳の障害)の人が、四人の人に寝床に寝かせられたまま運ばれてきました。彼らは家の中に入ることができないので、外の階段を使って屋根に上り、屋根をはがして、天井からイエスのいるあたりに彼をつり下ろしました。(当時のイスラエルの屋根は、枝で張りを渡し、その上から藁を敷き、土で固めた簡単な作りでした)人々はこの光景を見て驚いたことでしょう。
5節「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦された』といわれた。」
その中に何人かの律法学者たちがいました。彼らはイエスの行いを罪に定めようと偵察していたのです。彼らはイエスの言葉に憤慨して心の中で言いました。
7節「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
彼らが心の中で思ったことは間違いではありません。神のほかに人の罪を赦す方はだれもいません。しかし、イエス・キリストは神の子としてその権威を父なる神から与えられたお方でした。
当時、ツアラアトや中風、長血を患った女性などは、汚れた病とされ人々に嫌われました。それゆえ、これらの病が癒されるためには神の赦しが必要だと考えられていました。イエスは彼ら(律法学者たち)に「あなたの罪は赦された」というのと、「起きて、寝床をたたんで歩け」というのとどちらがやさしいかと問いかけました。口先だけで「あなたの罪は赦された」というのは簡単なことです。しかし「寝床をたたんで歩け」と言ってその人が立ち上がらなければ、神からの権威がないことがすぐにわかってしまいます。それゆえイエスはご自分が神から人の罪を赦す権威が与えられていることを人々に示すために、
11節「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家にかえりなさい。」
と言われました。すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ皆の前を出て行ったとあります。人々は驚いて「こんなことは、いまだかつてみたことがない」と言って神をあがめました。
(2)罪びとを招くイエス・キリスト(マルコの福音書2章13節~17節)
14節「イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、『わたしについて来なさい』と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。」
この出来事は、マタイの福音書9章9節、ルカの福音書5章27節にも登場します。ここに登場するレビとは取税人マタイと考えられます。(レビとはレビ族の出身と考えられる)当時の取税人という仕事は、ローマ政府に雇われ、ユダヤ人から税金を集めていました。それゆえ、ユダヤ人から取税人は憎まれていました。また、彼らは税金を余分に取り立て私腹を肥やしていました。それゆえ、彼らの多くは豊かな生活をしていましたが、パリサイ人達からは罪人と呼ばれ、ユダヤ社会から疎外された存在でした。レビはなぜ、取税人という仕事を捨ててイエスに従ったのでしょうか。彼は生活が豊かであっても、ユダヤ人社会から疎外された生活に悩みを持っていたのかもしれません。また、イエスの生き方に興味を持っていたのかもしれません。それゆえ、彼はイエスに呼ばれて、すぐに取税人という仕事を捨ててイエスに従ったのではないでしょうか。
レビはイエス様の弟子となり、自宅に招いて宴会を開きました。その時に彼は自分の仲間である取税人や同じようにユダヤ人社会から疎外されている貧しい人々を招きました。それは、彼らにもイエス・キリストを紹介したいという思いがあったからではないでしょうか。イエスが罪びとと呼ばれる人々、また取税人たちと食事をしているのを見て律法の学者たちはイエスの弟子たちに言いました。
16節「なぜ、あの人は取税人や罪びとたちと一緒に食事をするのですか。」
律法学者パリサイ人たちは、自分の清さを守るために、罪びとと呼ばれる者たちや取税人たちには近づこうとはしなかったからです。(彼らは罪人に近づけばその汚れを身に受けると信じていました。)これを聞いてイエスはこのように言われました。
17節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためです。」
健康な者は病院に行きません。体に異常を感じた者(痛みや発熱、吐き気などを感じた者)はその病を治すために病院に行きます。それと同じように、自分に罪を認めない者は神様の助けは必要としません。しかし、神の戒めを守れずに罪の自覚のある人には神様の赦しが必要になります。律法学者パリサイ人たちは律法を守ることによって正しい人になり天の御国に入れると信じていました。それゆえ、イエスのことばに耳を傾けることができませんでした。彼らは救い主を必要としなかったのです。私たちは神の恵み救いを必要とする者でしょうか。私たちの罪は神の前にどれぐらい積まれているでしょうか。自分の罪の大きさが分からない者にイエス・キリストの十字架の死の意味を理解することはできません。イエス・キリストはなぜ、あんなに苦しみを受け十字架の上で死ななければならなかったのでしょうか。それは、私たちの罪が大きすぎて、神の子のいのちが犠牲にされなければ私たちは罪の赦しを受けることができなかったからです。私たちが自分の努力で天の御国に入れるならば、イエス・キリストは人として生まれる必要はなかったし、十字架の上で死ぬこともありませんでした。それほど、私たちの罪は大きいものです。それが分かった時、初めて私たちは神に助けを求め、イエス。キリストの十字架の死によって罪赦された者となることができるのです。私たちは自分の罪を認め神様の恵み(救い)を必要とするものでしょうか。今もイエスは私たちを招いておられます。私たちはイエスの招きにどのように応えるべきでしょうか。