罪人を見捨てない神の愛

「罪人を見捨てない神の愛」イザヤ書49章13節~15節

私の父が亡くなって、しばらくした時に母から知らされた話ですが、父は三番目に身ごもった私を下ろすように母に命じたそうです。経済的に三人のこどもを育てるのが大変だと考えたのでしょう。その時、母はどうしても私を産みたくて、頑張ったそうです。その母の思いがあって私は生まれることができました。実際に、母は四人目を身ごもったそうですが、さすがに父に逆らうことができずに四人目の子は下ろしたと教えてくれました。その時、いのちとは何なのかと考えさせられました。父は私が生まれることは望まなかったが、母は私を産みたいと願ってくれた。また、その背後に神様の働きがあることも感じました。

また、最近、新聞で赤ちゃんポストができて、10年という記事を読みました。様々な事情で、子供を育てることができず、病院の赤ちゃんポストに置いていく母親。そんな母親の気持ちを察して、こどもを引き取り、孤児院に預け、養子縁組をする病院のスタッフ。その子が大きくなって、自分が親に捨てられたことを知った時、どう思うだろうかと考えさせられました。ただ、母親はこどもを捨てたくて捨てたわけではない。どうしても育てることができない状況で、それでも、生きてほしいという願いがあったから、赤ちゃんポストにこどもの命を託したのだと思います。

今日の聖書の個所は、旧約聖書のイザヤ書49章13節から15節を選びました。神様にとってイスラエルの民は、アブラハムの子孫として特別な存在でした。神様はアブラハムを祝福し、その子孫にカナンの地(イスラエルの地)を与えると約束して下さいました。しかし、実際にアブラハムの子孫イスラエルの民がカナンの地を征服したのは、モーセを通してエジプトを出た後、荒野を40年さまよい、モーセの弟子ヨシュアによってでした。その年数は神様がアブラハムに約束して、400年以上たった後の出来事です。また、イスラエルの民は、ある時は神様に戒めに従って生活しましたが、また、ある時は別の神々を神として礼拝しました。神様は、イスラエルの民を自分の民とするために、預言者を遣わしましたが、人々は預言者の声に耳を傾けず、イスラエルの国を偶像で満たしてしまいました。神様はたびたび、イスラエルの心を自分に向けさせるために周りの国々を使って、イスラエルの国を苦しめました。初期の頃はそれでも、自分たちの罪を認めて悔い改めて、神様に戻りましたが、後期になると、神様に頼らないで、エジプトの軍隊に頼ろうとしました。イスラエルの民は自分たちを愛しておられる神に立ち返りませんでした。それゆえ、最後には、バビロニヤの国に滅ぼされてしまいました。しかし、神様はイスラエルの民をかわいそうに思い、その70年後には、クロス王を通して国を再建することを許されたのです。

14節「しかし、シオンは言った。『主は私を見捨てた。主は私を忘れた』と。」あります。

「シオン」とは要害という意味で、ダビデが王となった後、この要害の地を攻め取りました。それ以後、この町の名前をダビデの町、または、シオンと呼ぶようになりました。また、シオンは象徴的にイスラエルの国全体をも指すことがありました。このイザヤ書の個所では、イスラエルの住民の声を代表したものと思われます。私たちは、生活が安定し幸いな時は、神様を身近に感じますが、苦しみや悲しみが訪れた時などは、このイスラエルの民のことばのように、神に見捨てられた、神様は私を忘れたのではないかという思いに満たされます。イスラエルの国はエジプトやアッシリアまたは、バビロニヤという大国に挟まれた小さな国です。時に外国の軍隊に責められ苦しい時代がありました。モーセの時代、神様はモーセを通して、奇蹟を行い、危機から助け出され、また、敵の攻撃をかわして、危険から助けられました。

確かに、イスラエルの民は、神への不信仰ゆえに国は滅ぼされてしまいました。しかし、神様のイスラエルの民に対する愛は変わりませんでした。15節「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れてもこのわたしはあなたを忘れない。」このことばは、イスラエルの民だけに向けられたことばではありません。神様は、イエス様を通して神の子としてくださった私たちにも同じように語っておられるのです。ペテロは、イエス様の裁判の席で、「あなたもイエスの弟子ではないか。」と言われて、恐ろしさのあまり、自分がイエス様の弟子であることを否定してしまいました。しかも、一度ならず、三度も同じようにイエス様の弟子であることを否定してしまったのです。それでも、イエス様はペテロを見捨てませんでした。死より復活した後、イエス様はペテロに対して「わたしを愛しますか。」と三度も聞いてくださいました。普通ならば、自分を知らないと否定した弟子を赦すことはありえません。しかし、神様のペテロに対する愛は、どんな時でも変わりませんでした。それは、私たちに対する愛も変わらないということです。母親は自分の乳飲み子を忘れることはありません。また、たとえ、そのようなことがあったとしても、神は私たちを忘れることはあり得ないのです。たとえ、私たちが苦しみのゆえに、神を忘れたとしても、神は私たちを見捨てることはありません。私たちがもう一度、神の名を呼ぶとき、そこに神はいてくださるのです。