罪赦された者

マタイの福音書18章21節~35節

私たちは毎週礼拝の中で「主の祈り」のことばを唱えています。主の祈りのことばの中にこのようなことばが記されています。マタイの福音書6章12節「私たちの負い目(罪)をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します(赦しました)。」また、14節15節「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」とあります。加害者は被害者に対して行った過ち(罪)を忘れることがあります。しかし、被害者は加害者から受けた暴力や被害を忘れることはできません。しかし、聖書は被害者に対して加害者の罪を赦しなさいと教えています。その理由は、被害者も神に対して罪人であり、神はその罪をイエス・キリストの十字架においてすでに赦してくださったからです。私たちは神からどれだけ大きな罪を赦された者でしょうか。それが分からないと、今日の聖書のことばは納得がいきません。

以前、聖書の学びをしている時(男性一人女性一人私を含めて三人)、罪の赦しの問題を話しました。彼女はその話を聞いて急に怒り出しました。「どうして、赦さなければならないのですか。私は絶対に赦しません。」彼女は以前ある男性からひどい被害を受けたことのある女性でした。私は、彼女に十字架のイエスの話をしました。私たちも神の前に罪を赦された者ですと。しかし、彼女は、納得することなく、それ以後、聖書の学びに来なくなってしまいました。

初めに、マタイの福音書18章21節から35節までをお読みしました。21節「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。』」七回までとは忍耐のいることです。ユダヤ教の律法では三回までは赦すように言われていたそうです。しかし、イエスは22節「イエスは言われた。『わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。』」「七回を七十倍するまで」とは、回数の問題ではなく何度でも赦しなさいという意味です。私たちはそれ程、人を赦すことができるでしょうか。イエスはここで、一つのたとえ話をされました。23節「ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。」とあります。このたとえ話は「天の御国」のたとえと前置きしています。一万タラント(約6兆円、膨大な金額を意味する)の負債のある者が呼び出されました。26節「それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします。』と言った。」とあります。しかし、こんな高額な借金を返せるわけがありません。27節「家来の主人はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。」とあります。実際はそういう事は考えられませんが、イエスは、このたとえ話を通して王(神)の寛大さを表しています。28節「ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリ(約百万円、先ほど借金と対比して少ない額)の借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。」29節「彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします。』と嘆願した。」とあります。30節「しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。」とあります。何と冷たい態度でしょう。それを知った主君は彼に言いました。32節33節「悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はお前の負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。」34節「こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。」とあります。このたとえ話の結論が35節「あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」このたとえ話の中で、最初の男の借金の額は、私たちが神の前に積み上げられた罪を表しています。ある先生が言いました。「一日一回罪を犯せば、一週間で七回罪を犯したことになります。一カ月では30回になります。一年では365回罪を犯したことになります。10年では、3650回罪を犯したことになります。自分の年齢で計算すると何回になるでしょうか。」年を取ればとるほど、回数が増えていきます。しかし、イエス・キリストの十字架の死は私たちの犯したすべての罪の赦しのために苦しみを負われ死です。私たちはどれ程大きな罪を赦された者でしょうか。それゆえ、初めの話しに戻りますが、自分の罪が赦されたことが分からない人は人の罪を赦すことができないのです。

また、憎しみを持って生きることは、幸いな人生ではありません。憎しみからは何も良いものは生まれないからです。憎しみを手放したときから、幸いな人生が始まるのです。しかし、かといって人を赦すことは簡単な事ではありません。自分の家族を殺されて、それでもその人を赦すことが出来るのか、私には自信はありません。先程の女性もよほど大きな被害を受けたのでしょう。それゆえ、そう簡単に人に赦しを要求することは出来ないことだと思います。ただ、神の愛を知る時、人は自ら人を赦すことができるのだと思います。時間がかかる事かもしれませんが。

旧約聖書の創世記に兄弟に奴隷として売られたヨセフの話しがあります。彼は後に出世して、エジプトの王の次の位に就きました。その頃、全世界に飢饉が訪れ、ヨセフの家族がエジプトに食べ物を求めてやってきました。ヨセフは兄弟だとわかりましたが、兄弟たちはヨセフだと気が付きませんでした。間を飛ばしますが、初めヨセフは兄弟たちを試しますが、後に、自分が兄弟のヨセフだと兄弟たちに証し彼らを赦すと宣言しました。ヨセフは兄弟たちに言いました。創世記45章8節「ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」創世記50章20節「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを良いことのために計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」ヨセフは初め兄弟たちを憎みました。しかし、彼は信仰によってこの出来事を神の計画として受け入れたのです。一般に良いことは神から悪いことは悪魔からと考えがちですが、聖書は神が全てを支配しておられると教えています。それゆえ、良いことも悪いことも神から与えられます。しかし、神は愛ですから意味もなく私たちを苦しめることはありません。苦しみには意味があります。ヨセフは兄弟たちの悪を神が人々を助けるために用いたと理解したのです。神のなさることを私たちはすべて理解することはできません。以前、牧師で家族カウンセラーの堀肇先生に教わりました。過去は変えられないが、解釈(受け取り方は)変わる。確かに、私の父と関係はそうでした。私は父との関係が悪く、そのために家を出て東京で暮らしました。クリスチャンになっても、三年間父のことを赦せず、父の救いのために祈ることができませんでした。赦すきっかけになったのは、結婚して子どもをもち、自分が親になってからでした。自分が親になり父親の気持ちが分かりようになってから、父に対する気持ちに変化が起こりました。父のことばに傷つけられた過去は変わりませんが、父の気持ちが分かるようになり父を赦せるようになったのです。

罪を赦すことは難しいことです。しかし、神はひとり子イエス・キリストのいのちを犠牲にしてまで、私たちの罪の問題を解決してくださいました。私たちは神の前に積まれた多くの借金(罪)を赦された者です。また、憎しみを持って人は幸せになれません。神はすべてを支配しておられます。苦しみには意味があり、すべてを益に変えてくださる神です。今はその意味が分からなくても、後に分かる時が訪れます。私たちは万事を益に変えて下さる神の愛を信じ、憎しみを手放したとき、本当の幸いな人生を歩むことができるのです。