羊飼いの老人モーセと神

出エジプト記3章1節~12節

神は今も生きておられ、私たちの人生を導いてくださいます。それは、私たちが神を信じた時からではなく、生まれる前からです。そういう意味では私たちの人生は神の御手の中にあります。それは、運命という定められた人生ではなく、神の摂理(神の計画)に守られた人生です。

前回から出エジプト記を学び始めました。神はアブラハムと契約を結び、彼と彼の子孫を祝福しカナンの地を与えると約束してくださいました。そして、神の約束はアブラハムの子イサクに引き継がれ、次にイサクの子ヤコブに引き継がれ、ヤコブの子12人がエジプトで暮らし始めました。それから400年の時が流れました。ヤコブの子孫がエジプトで増え広がりイスラエルの12部族に成長しました。エジプトの王はへブル人(イスラエルの民)を恐れ重労働を与え彼らを苦しめました。しかし、へブル人の人口増加を抑えることは出来ませんでした。そこで、エジプトの王は、男の子が生まれたらナイル川に投げ捨てなければならないと厳しく命じました。そんな迫害の中でモーセは生まれました。モーセの両親は彼を助けるためにかごに入れナイル川の川岸に置きました。誰かに見つけてもらいモーセが生き延びるためです。そのかごを見つけたのはエジプトの王の娘でした。彼女はその子がへブル人の子である事を知り、かわいそうに思いその子を養子にすることを決めました。それを見ていたモーセの姉ミリアムは、この子のために乳母を連れてきますと言ってモーセの母を連れてきました。王の娘は彼女にモーセを養うように命じ賃金を払う約束をしました。そして、モーセは実の母の許で育てられた後、王宮に連れて来られ、エジプトの王の娘の息子として王宮で生活することになったのです。

モーセはへブル人として生まれ、エジプトの王宮で育てられました。モーセが40歳になった時、彼はへブル人の苦しみを見て、彼らを何とか助けたいと思いました。しかし、それはまだその時はではありませんでした。モーセはエジプト人がへブル人を打っているのを見て、彼を助けようとして、エジプト人を殺してしまいました。また、彼はその事がエジプトの王に知れるのを恐れ、荒野へと逃げて行きました。モーセはそこでミディアンの祭司イテロと出会い、彼の家族と共に羊飼いとして生きることを決めたのです。それから40年の歳月が過ぎ、モーセは80歳になっていました。神は80歳になった羊飼いの老人モーセに近づき、へブル人を助け出し、神の約束の地カナンに導くように命じたのです。

神はなぜ、40歳のモーセではなく、80歳の老人のモーセにへブル人を助けるように命じたのでしょうか。40歳のモーセは、若く力もあり、エジプトの王の娘の息子という地位もありました。しかし、神がモーセに求めたのは、神への従順な信仰と荒野での生活の知恵でした。若い時のモーセは自分の力が強く、神に従うよりも自分の知恵や経験、力に頼る者でした。先のエジプト人を殺した出来事も、彼の怒りを抑えきれない性格から招いた悲劇でした。しかし、80歳のモーセは、羊飼いの老人となり何の権威もありません。彼にあるものは、羊飼いとして培った荒野で生活する知恵でした。実は、神が必要とされたのは神に従う謙遜な信仰と荒野で生活する知恵でした。そのために、モーセは40歳ではなく、さらに40年羊飼いとしての荒野の生活が必要だったのです。

神がモーセにへブル人を助けるように命じた時、モーセはどうしたでしょうか。出エジプト記3章11節「モーセは神に言った。『私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。』」モーセは40年前の失敗を思い出したことでしょう。12節「神は仰せられた。『わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。』」神は「わたしはある」というご自身の名をモーセに教え、4章でモーセが杖を投げると蛇になる奇跡、モーセが懐に手を入れると手がツァラアトに冒され、もう一度懐に手を入れると元の手に戻るという奇蹟を行わせました。それでもモーセは神のことばに従うとは言えませんでした。出エジプト記4章10節「モーセは主に言った。『ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。』11節12節「主は彼に言われた。『人に口をつけたのはだれか、だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。』」それでもモーセは神のことばに従えませんでした。そこで、神はモーセの兄アロンを遣わすと約束してくださいました。そこでやっとモーセは神のことばに従いエジプトに行くことを決心したのです。

40歳のモーセならばすぐに神の命令に従えたかもしれません。しかし、80歳のモーセは先の失敗もあり、へブル人をカナンの地に導き出す自信がなかったのです。しかし、神にとって、モーセの力や知恵は必要ありませんでした。3章12節で神はモーセに「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。」と言われました。これこそが私たちに一番必要なしるしではないでしょうか。それでも、従えないモーセに、神は彼の兄アロンを遣わすと約束してくださいました。神は今も弱い私たちに助け手を備えてくださいます。私たちに求められるのは、神に従う信仰だけです。必要な物は神が備えてくださいます。この後、モーセはしゅうとのイテロにエジプトに行くことを報告して、エジプトに向かったのです。

マタイの福音書7章にイエス様が群衆に語られたたとえ話「岩の上に建てられた家と砂の上に建てられた家」があります。このたとえ話で、家については何も語られていません。大切なの、どのような土台の上に家を建てたのかということです。見た目には岩の上でも砂の上でも見かけは変わりません。しかし、洪水が起きた時、大きな違いがありました。岩の上の家は倒れませんでしたが、砂の上の家は倒れてしまい、それもひどい倒れ方であったとあります。ここで、岩の上とは何でしょうか。砂の上とは何でしょうか。岩の上とは揺るがないしっかりとした土台で、砂の上とは軟弱で崩れやすい地盤でした。そこで、イエスがここで群衆に教えていることは、岩の上とはイエスの教え聖書のことばに従った生き方で、砂の上とは、この地上の目に見える財産や権力を求める生き方です。私たちは何のために生き、何を信じて生きているでしょうか。モーセは80歳にして神と共に歩む人生を始めました。それは、120歳まで40年の歩みです。その40年は決して楽で楽しい年月ではありませんでした。それは、苦難と苦しみの道でした。しかし、モーセがそのような苦しい道であっても最後まで全うできたのは、神が共におられたからです。イエスは弟子たちにも同じように世の終わりまで共におられると約束してくださいました。これこそが岩の上に建てられた家ではないでしょうか。私たちの歩みは、苦しみや悲しみの無い人生ではありません。たとえ苦しみや困難があっても神が共におられる人生です。今日、そのことをもう一度、心に留めましょう。