聞く耳のある者は聞きなさい

マルコの福音書4章1節~25節

今日は、有名な種まきのたとえから学びます。イエスは、たとえ話の後、9節「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。私たちは聞こえる耳を持っていて、普通にしていても人の話を聞くことができます。イエスがここで言っている「聞く耳のある者」とは、注意深く聞くとか、興味を持って聞くという意味です。学校の授業でも、好きな科目は集中して聞くので、その時間が短く感じますが、嫌いな授業は長く感じるものです。今日は、イエスのたとえ話を、昔の話や他人に話されたことではなく、自分に語られた話として聞いていただきたいと思います。

種まきのたとえの中心は、種がまかれる土壌が中心です。種はみな同じ種です。イエスはこの蒔かれる種を「みことば」の意味だと14節で説明しています。では、同じ種(みことば)が蒔かれたのに、どうして、百倍の実を結ぶところともあれば、実を結ばない、または、枯れてしまうところがあるのでしょうか。その原因はすべて、種がまかれた土壌にあります。イエスは、この土壌の違いを、私たちの心の状態にたとえて、このように言われたのです。種は、四つのそれぞれ違う環境(土壌)に蒔かれました。それは、私たちの今の心の状態を表していました。今、私たちはどのような心で、神様のことばに耳を傾けているでしょうか。

1、道端に蒔かれた種(3節4節、15節)

 3節4節「よく聞きなさい。種をまく人が種まきに出かけた。蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。」その意味は15節「道端に蒔かれた者とは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、サタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。」この場面は、先ほどの、嫌いな授業、興味がない授業に参加する生徒を思い出させます。教会に誘われて礼拝に参加しても、強制的であったり、神様や聖書に興味がなければ、聖書の話を聞いても心に残りません。3節、4節では「鳥が来て食べてしまった」とありますが、15節では「サタンが来て、みことばを取り去る」と表現しています。先ほどのイエスのことば「聞く耳があるなら。聴きなさい。」に当てはめるなら、その人は、聞く耳がない、聞く意思がない、興味がないと言えます。その人は、たとえ、教会の椅子に座っていても、みことばが心にとどまらないので、せっかく語られた神のことばもサタンが取り去ってしまうために実を結ぶことはないということです。

2、岩地に落ちた種(5節6節、16節17節)

 5節6節「また、別の種は土地の薄い岩地に落ちた。土地が深くなかったのですぐに芽を出したが、日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまいます。」その意味は16節17節「岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで、受け入れますが、自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」キリスト教はご利益宗教ではありません。イエス・キリストを信じたら、病が治る。お金持ちになれる。有名になれるという宗教ではありません。時々、問題があって教会に来られる方があります。それはいいのですが、そのような人の場合、問題が解決すると、教会に来なくなったり、逆に、問題が解決しなければ、神に失望して教会から去ってしまいます。問題は「根」があるかどうかです。「根」とは、神との関係であり、イエスの愛に留まっているかどうかです。イエスの愛に留まるかどうかは、自分の罪が分かっているかどうかにかかっています。自分の罪を赦すために、イエス・キリストがあの十字架で苦しまれ、いのちを犠牲にしてくださったことがわかっていれば、どんな苦しみや迫害にあっても、イエスの愛に留まることが出来ます。しかし、「根」がない、イエス・キリストの十字架の愛が分からなければ、私たちは簡単に、他の神々やご利益のある宗教に移ってしまいます。岩地とは、表面的な信仰、形だけの信仰と言えるかもしれません。大切なのは「根」です。イエスの愛に繋がっているかどうかが大切なことです。

3、茨の中に落ちた種(7節、18節19節)

 7節「また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。」その意味は、18節19節「もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結ぶことができません。」

この蒔かれた種は枯れてはいません。しかし、実を結んではいません。ここで言われている「実」とは、神の祝福であり、イエスの愛です。なぜ、実を結ばないのか、それは、「茨」にたとえられている、この世の思い煩いや、富の惑わし、いろいろな欲望のために、この世のものに目が奪われ、神よりもこの世のほうが大きく見えるからです。神の存在を信じることが信仰ではありません。信仰とは、神が今も生きていて、すべてを支配しておられることを信じることです。ヨハネの福音書5章で、イエスは38年の間病のために動けない人に対して「良くなりたいか」と声をかけられました。病人に対して「良くなりたいか」と声をかけるのは、失礼な気がします。誰でも、病人はよくなりたいと思っています。さらに、この人は38年もの間、苦しんできたわけですから、よくなりたいのはあたりまえです。しかし、イエスはあえて、彼に「良くなりたいか」と声を掛けました。ここで、彼の心の中に深く入ってみると、彼は、良くなりたくて、このベテスダの池で横になっていました。しかし、自分一人では、湖が動いたときに、一番に入ることはできません。それが、38年も病に苦しんできたのです。病が長くなると、治ることに期待を持てなくなり、あきらめてしまう人もいます。イエスは、あえて彼に「良くなりたいか」と声をかけることによって、彼に治りたいという思いを呼び覚ましているのです。ヨハネの福音書5章7節「病人は答えた。『主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、他の人が先に下りて行きます。』」この言葉は、彼が良くなりたいという意思表示ではないでしょうか。そこで、イエスは彼に言われました。8節「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」もし、彼が歩くことにあきらめていたら、何も起こらなかったでしょう。しかし、彼はイエスの言葉を信じて立ち上がったのです。9節「するとすぐにその人は、治って、床を取り上げて歩き出した。」とあります。もし、彼が現実の姿だけを見て、イエスの言葉に従わなかったら、何も起こらなかったでしょう。彼は、イエスの言葉を信じて従いました。すると、神から祝福を受け、彼は歩き出したのです。先ほどの、茨の中に落ちた種は、神を見ないで、周り(世の力、豊かさ)ばかり見ていました。しかし、私たちの信じる神は、天地創造の神であり、全能なる神です。私たちが自分の殻(不可能という思い)の中に神を閉じ込めるなら、私たちの不信仰のゆえに神は働くことはありません。大切なことは、神を信頼し委ねることです。そうすることによって、30倍、60倍、100倍の実を結ぶことが出来るのです。

4、良い地に落ちた種(8節、20節)

 8節「また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」そしてその意味は、20節「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」ここで良い地とは、みことばを聞いてそれで終わりではなく、「受け入れ」とあります。それは神のことばを信じて歩むということです。つまり、私たちの心がいつも神に信頼して歩むなら、自然と、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人生を歩めるということです。しかし、なかなかそれができないのは、神より世が大きく見えるからです。それゆえ、私たちは、毎日聖書を読み、神にお祈りし、神との関係を深めていくことが大切なことなのです。

では次の21節「明かりを持ってくるのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。」22節「隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。」とは、どういう意味でしょうか。ここで言われている「明かり」と「隠れているもの」「秘められたもの」は同じものを表しています。それは、「神の国の奥義」イエスのたとえ話を指しています。イエスのたとえ話は群衆に話されましたが、多くの者はそれを理解することはできませんでした。しかし、イエスは弟子たちにはその意味を説明されています。それは、彼らが、後に、明らかにするためです。私たちは、彼らが書いたもの聖書によって明らかにされたのです。

24節25節も難解なことばです。24節「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分で量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。」25節「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」この言葉は、私たちの興味の度合いを表しています。私たちがどれだけ、神に関心があるかです。神をもっと知りたいと思っている人には、その信仰に応じて、神からたくさんの恵みが与えられる。それゆえ、神に大きな期待と興味を持っている人には、さらに恵が与えられ、興味を持たない人は、さらに、興味を失い、神から遠くなっていくという意味です。

神は、私たちを愛し、聖書を通してご自身を明らかにしておられます。私たちが興味を持って、神に近づくなら、神も私たちに近づいて、さらに、ご自身の愛を明らかにしてくださいます。求めなさい。そうすれば与えられますとイエスは言われました。私たちが、神に求め、神に期待するなら、私たちの心は、良い地となり、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人生となるのです。