肉の思いと信仰による決断

「肉の思いと信仰による決断」創世記3章1節~7節

神様は6日間で天地すべての創造を完成されました。その6日目に神様が創造されたのが人間です。また、神様は人間を創造する際、神ご自身の姿に似せて創造されたと記されています。神に似るとは、外見上のことではなく、内面的なこと、例えば、物事を想像し作り上げる力とか、自由に物事を考え実行する力など、それは自由な意志が与えられて初めてできることです。神様は私たち人間を意思のないロボットのような存在ではなく、自分で考え行動する自由を与えてくださったのです。

それは、神様が人間を愛し信頼しておられたからです。その信頼関係にひびを入れたのが悪魔です。創世記3章にヘビが登場します。ヘビはエバに質問しました。1節「あなたがたは園のどんな木からでも食べてはならないと神は、本当に言われたのですか。」彼女はヘビに答えました。2節3節「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」ヘビは彼女に言いました。4節「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」6節「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫もたべた。」しかし、ふたりは蛇が言うようにはなりませんでした。7節「このようにして、二人の目は開かれ、それで、彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」とあります。神様は戒めを破ったふたりをすぐには殺しませんでした。それどころか、神様は哀れなふたりの姿を見て、ふたりに、皮の衣を作り彼らに着せて、エデンの園から追い出されたのです。ふたりが善悪の木の実を見たとき、二つの考えが二人の頭の中に浮かびました。一つは、善悪の知識の木の実を食べて神のようになりたいという思い。もう一つは、神様の戒め、善悪の知識の木からとって食べてはいけないと言う神様の命令。ふたりには、どちらかを選ぶ自由がありました。神様の戒めを退けて蛇のことばに従うこと。もう一つは、蛇の誘惑を退けて神様の戒めに従うこと。ふたりは、神様の戒めを退け善悪の知識の木の実を取って食べてしまいました。ふたりは罪を犯しましたが、神は、ふたりに死の代わりに、エデンの園からの追放を申し渡しました。その意味は、神様と人間との断絶であり、霊的な死を意味していたのです。そのできごとは、人間の弱さを表した出来事でした。

イスラエルの民150万人(男性だけで60万人)が、エジプトを脱出した後、何年かたち、目的地のカナンに近づきました。モーセはここで、各部族から代表者12人を選び、彼らをカナン偵察のために送り出しました。40日後、彼らは戻ってきて、人々に報告しました。民数記13章27節~29節「私たちは、あなたのお遣わしになった地に行ってきました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてそれがそこのくだものです。しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ私たちはそこでアナクの子孫を見ました。ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」その報告は最悪のものでした。エジプトから出てきて、苦労して目的地のカナンの地に近づいたのに、イスラエルの民を恐れさせるのに十分な情報でした。しかし、同じ状況を見ても、ヨシュアとカレブは恐れないで、イスラエルの民に前進するように訴えました。30節「そのときカレブがモーセの前で、民を静めて言った。『私たちはぜひとも、上っていって、そこを占領しよう。必ずそれができるから。』」しかし、イスラエルの民は、エジプトに引き返そうとしました。それを見てヨシュアとカレブは民に叫びました。民数記14章7節~9節「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」しかし、イスラエルの民は、ふたりの意見に従わずにエジプトに帰る道を選んだのです。その結果、イスラエルの民は40年荒野をさ迷い歩くことになり、その時の大人は、ヨシュアとカレブのほかは、荒野で死に絶えてカナンの地に入ることができなかったのです。

そのような出来事は、私たちの人生にも起こることではないでしょうか。神様のことばに従いたい、しかし、現実を見るととうてい従うことができない。私は、神学校の時代に、毎日聖書を読むことの大切さを学びました。聖書を読むとき、私は、自分自身をその状況に置き換えて考えることがあります。例えば、この後、イスラエルの民は40年を過ぎ、カナンの地に近づき、ヨルダン川を渡らなければならない、その川は、大きく、とうてい泳いでわたることができない。神様はヨシュアに祭司に契約の箱を担がせてその川を渡るように命じました。もし、自分が祭司だったら目の前にある川を渡れるだろうか。私は、その川を見て恐ろしくなり、立ち止まって一歩も足を前に踏み出すことのできない自分を想像します。しかし、それと同時に、彼らはどうしてわたることができたのだろうかと考えます。彼らは、40年前に神様がイスラエルの民に行った、海が二つに割れ、渇いた地を渡ったという神様の奇跡を体験した人々ではありません。そのことは、父や母から聞いた伝説、昔の話です。しかし、彼らはそれを思い出したのではないでしょうか。神はイスラエルの民を助け、紅海を渡らせてくれた。40年前に、イスラエルの民を助けた神は、今も、私たちとともにおられる、彼らはその信仰を持って一歩踏み出したのです。実は、彼らが40年の間、学ばなければならなかったのは、その信仰でした。もしイスラエルの民が、エジプトに引き返そうとせずに、前に進んだとしても、このヨルダン川は渡れなかったと思います。カナンの地を征服するためには、神様がともにおられるという信仰が必要だったのです。

では、彼らと私たちと何がちがうでしょうか。彼らも神様に選ばれた民なら、私たちもイエス様によって救われた神の民です。問題は、状況だけで判断せずに、神様が私たちとともにいることを信じることです。それが、信仰による決断です。それは、一夜にしてできる信仰ではありません。毎日、聖書を読む、毎日祈ると言う地道な働きの上に積みあがられた神様との信頼関係です。私たちはこの地上において、艱難や苦しみがあります。それに加えてサタンの誘惑にも遭います。予期せぬ出来事にであったとき、私たちはどのような決断をするでしょうか。その決断は私たち一人一人がしなければならない決断なのです。