自分の娘を神にささげた士師エフタ

士師記11章29節~40節
ギデオンによって勝利を得たイスラエルの民は、彼に王になるように申し出ました。しかし、ギデオンはそれを固辞し、主があなた方を治めますと答えました。そして、彼はミディアン人から奪った金の耳飾りを求め、その金の耳飾り(金で約20キロ)でエポデ(祭司の服)を作り、それを彼の町オフラに置いたのです。イスラエルの民はそれを慕って淫行を行ったとあります。それは、ギデオンが作ったエポデを神のように礼拝したという意味です。イスラエルの民はギデオンが作ったエポデによって偶像礼拝の罪を行ったのです。ギデオンは40年間イスラエルを治め、その間は穏やかでした。
次にギデオンの子アビメレクが登場しますが、彼は士師ではありません。ギデオンはたくさんの妻があり、彼女たちによって70人の息子がいました。アビメレクは正妻の子ではなく、側女の子でした。彼は母の身内の者たちと協力して、正妻の子69人を殺し、父ギデオンに代わってシェケムの町の王となりました。その後、アビメレクは三年間イスラエルを支配しました。そのアビメレクは悲惨な最期を迎えます。彼がテベツを攻めているとき、やぐらの上から一人の女性が、下にいたアビメレクめがけて、ひきうすの上石を落とすと、彼の頭を直撃し、それが致命傷となり彼は死んでしまったのです。アビメレクの死後、トラが二十三年間イスラエルをさばきました。次にヤイルが二十二年間イスラエルをさばいたとあります。しかし、その士師が亡くなると、また、イスラエルの民は、イスラエルの神を捨てバアルやアシェラなどの他の神々を慕い求め、自分たちの神としたのです。
士師記11章で、エフタが士師として登場します。彼は勇士であったが遊女の子であったとあります。彼は正妻の子らにいじめられ、彼らから逃げてトブの地に住み着きました。しばらくして、彼のところにならず者たちが集まり、やくざのような集団を形成するようになりました。それから、しばらくしてアモン人がイスラエルに攻めてきました。その時、ギルアデの人々は、エフタに使いを送り、自分たちの首領になってくださいと頼みました。エフタはそれを了承し、アンモン人と戦う前に主に誓願を立てました。士師記11章30節31節「エフタは主に誓願を立てて言った。『もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出てくる者を主のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます』」この誓願は彼にとって災いとなってしまいました。エフタがアンモン人に勝利し家に帰ると、自分の一人娘がタンバリンを鳴らしながら出迎えたのです。35節「エフタは彼女を見ると、自分の衣を引き裂いて言った。『ああ、私の娘よ、おまえは本当に私を打ちのめしてしまった。おまえは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。』」36節「すると、娘は父に言った。『お父様、あなたは主に対して口を開かれたのです。口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アンモン人に復讐なさったのですから。』」娘は父に二か月間友達と過ごす時間をもらいました。その後、エフタは神に誓願したとおりに娘を全焼のささげものとしてささげたのです。
私たちはこの出来事をどのように理解したら良いでしょうか。また、私たちはこの出来事から何を学ぶのでしょうか。一見、エフタは神に誓願したとおりに、自分の大切な娘を全焼のささげものとして神にささげることによって信仰深いように見えます。神は本当にこのささげものを喜んで受け取られたのでしょうか。もともと、この誓願は神が願ったことではなく、エフタが一方的に神に誓った誓願です。私たちも、祈りの時に、条件を付けたり、断食や熱心な祈りによって、神を自分の願い通りに動かそうとする間違った祈りをしていないでしょうか。祈りとは、自分の思い通りに神を動かすことではなく、私たちが神の思いを知り、それに私たちを従わせることが本当の祈りです。ゲッセマネの園でイエスが祈った祈りが見本の祈りです。イエスは十字架の死を前に、この杯(十字架の苦しみ)を取り除いてくださいと三度祈りました。しかし、また、同時に、「わたしが望むようではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」と祈っています。エフタが神に誓願を立てたとき、自分の娘が迎えに出ることを想定していたのでしょうか。そうではないでしょう。彼はアンモン人に勝利をしたいがために、あまり考えもしないで、この誓願を立てたのではないでしょうか。自分の娘ではなく、ほかの人が出迎えたなら彼はどう思ったでしょうか。命は神の物です。それをあたかも自分の物のように神にささげるという誓願は正しい行為だったのでしょうか。彼は、そんなことを考えずに、人の命をささげますと誓ったのです。それは、軽はずみな行為であり、思慮の足りない祈りだったのではないでしょうか。祈りとは簡単なようで難しいものです。何でも好きなように祈ればよいというものではありません。叶えられる祈りとは、神の御心に叶った祈りをすることです。それゆえ、私たちは、神の御心を知るために祈るのです。私たちが相手のことを理解するためには、長い時間を要します。それと同じように、私たちが神の御心を知るためには、神との時間をできるだけ持つことが必要です。そのために、毎日聖書を読み祈ることが不可欠なことなのです。イエスはマタイの福音書7章7節8節で「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」と言われました。しかし、それは何でも熱心に祈れば与えられるという意味ではありません。11節を見ると「このようにあなたがたは悪い者であっても、自分の子どもらには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、良いものを与えて下さらいことがあるでしょうか。」と言われました。親が子に良いものを与えるように、神は私たちが願ったものではなく、私たちに良いものを与えてくださいます。私たちは先の未来のことを知ることはできません。しかし、神は私たちのすべてを知った上で、私たちに必要な物(良い物)を与えて下さる神です。それゆえ、私たちは、神への信頼と、神に従う信仰が必要になるのです。熱心な祈りが、必ずしも良い祈りではありません。神に喜ばれる祈りとは、神の御心に叶った祈りのことです。私たちはそれを忘れ、エフタのように、自分中心の祈りをしていないでしょうか。神が主人で、私たちはそのしもべです。私たちがそれを忘れて、神と対等な祈りをしたり、神を自分の思いに従えさせようとする祈りは、いくら熱心でも神に喜ばれる祈りではないのです。