エステル記4章1節~17節
今日はエステル記から、私たちの人生に働きかける神の御手について考えたいと思います。南ユダ王国は紀元前585年にバビロニアよって滅ぼされました。その時、王族や貴族、技術者など役に立つ人々は捕囚としてバビロニアに連れて行かれました。その後、バビロニアも滅び、ペルシャの国が大きな力を持つようになりました。エステル記はペルシャの国の時代に起きた出来事を記した聖書の記録です。エステル記には、神の名は出てきません。しかし、ペルシャの王によって国が支配されていても、その背後に見えない神の御手を見ることが出来ます。私たちの人生もそうではないでしょうか。神を信じない人にとっては、すべてが偶然の出来事としか受け取れません。病気や事故、自然災害も偶然の出来事で、仕方がない、運が悪かったとあきらめるしかありません。しかし、神を信じる人には、すべてに神の御計画があることを信じることが出来ます。たとえば、病気や事故においても神の御計画がある事を信じます。また、私たちは神が私たちを愛しておられるので、必ずすべてを益に変えて下さることを信じることが出来るのです。神を信じない人が不幸な出来事に出会ったらあきらめるしかありません。「どうせ自分は不幸な星の下に生まれたのだ」と。しかし、神を信じる人々は、必ず神は助けて下さる、守ってくださるという信仰があるゆえにあきらめることなく、希望を持ち続けることが出来るのです。エステル記の中心は、王の側近ハマンがユダヤ民族を滅ぼそうとしたとき、王妃エステルの命がけの嘆願によってユダヤ民族の命が助けられたお話です。
エステル記1章には、王妃ワシュティが王の命令に背いたために、王妃の位から退けられたことが記されています。そして、2章では、そのために新しい王妃を選ぶために全国から美しい女性が王宮に集められたことが記されています。その中にエステルも含まれていました。エステルは両親を失い叔父のモルデカイによって育てられました。彼はバビロン捕囚の時に、強制的に連れてこられた者で、貧しい生活をしながらエステルを自分の娘のように育てたのです。エステルは姿も美しく、顔だちも良かったとあります。エステルは自ら望んで王妃になりたくて、申し込んだのではないものと思われます。彼女の美しさを見た周りの者が、王の役人に申し出て、王宮に連れて行かれたものと考えられます。彼女は自分の民族も、自分の生まれもあかさなかったとあります。それはモルデカイにそのように命じられていたからです。モルデカイは彼女のことが心配で、毎日、後宮の庭の前を行き来していたとあります。王はエステルを新しい王妃に選びました。そんな中、モルデカイは王の暗殺計画を知り、それがエステルを通して王の知るところとなり、暗殺を企てた者たちは木にかけられ殺されました。しかしその時、モルデカイはその事で何のほうびも受けませんでした。
3章において、ハマンが登場し、王に用いられるようになりました。すると、多くの者が彼を恐れ、彼の前に膝をかがめひれ伏したとあります。しかし、モルデカイはハマンに膝をかがめることも、ひれ伏すこともしませんでした。ハマンはモルデカイに怒りを燃やし、彼だけではなく、彼の民族ユダヤ人のすべてを抹殺する計画をたてたのです。4章において、モルデカイはこの事をエステルに報告し、王にユダヤ人を救うようにお願いしてくれと頼みました。エステルは彼に答えました。11節「王の家臣たちも王の諸州の民も、だれでも知っているように、召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、男でも女でも死刑に処せられるという法令があります。ただし、王がその者に金の笏を差し伸ばせば、その人は生きながらえます。私はこの三十日間、まだ王のところへ行くようにと召されていません。」モルデカイは彼女に返事を送りました。13節14節「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」エステルは彼に答えました。16節「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、わたしのために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」5章において、エステルは死を覚悟して王の前に出ました。王は金の笏をエステルに差し出し、エステルは王の前に出て、ハマンをお酒の席に招くようにお願いしました。ハマンは王と王妃の酒の席に自分だけが招かれたことを大いに喜びました。エステルはハマンが招かれた時、すぐにはユダヤ人の問題を口にしませんでした。また、エステルは次の機会にハマンを招き、そこで自分の願いを王に告げると約束しました。6章で、王は夜眠ることが出来ず、記録の書を持ってくるように命じました。そこで王は、王の暗殺計画がモルデカイの報告によって、未然に防がれたことを知りました。また、そのほうびがモルデカイに与えられていなかったことに気が付いたのです。王はそのことでハマンに相談しました。ハマンは自分がほうびを受けるのだと思い、「王服を着せ、王の馬に乗せ王冠を付けさせ、人々の前で、王が栄誉を与えたいと思われる人はこの通りであるとふれまわしてください」と言いました。すると王は、モルデカイにそのようにするようにハマンに命じたのです。7章で、エステルは二度目の酒宴の席で、ハマンによってユダヤ人の命が根絶やしにされようとしていることを王に告げました。王は憤って酒宴の席を出て行きました。ハマンはエステルに命乞いをしましたが、それを見た王は、王妃を辱めるのかと言い、ハマンがモルデカイを吊るすために準備した木にハマン自身を吊るして殺してしまいました。その後、ハマンが準備した、ユダヤ人を暗殺するように命じられた文書は破棄され、ユダヤ人を虐殺することは許されないという文章が世界中に告げ知らされたのです。
もし、初めの王妃ワシュティが王の命令に逆らわなかったとしたら、エステルは王妃になることはなかったでしょう。もし、エステルが王妃でなかったとしたら、ハマンがユダヤ人の命を抹殺しようと計画したとき、誰がユダヤ人を助けることが出来たでしょうか。そう考えると、ワシュティが王妃から退けられたこと、その代わりにエステルが王妃に選ばれたことは偶然ではなく、神の御計画ということが出来るのではないでしょうか。また、エステルが命を懸けて王の前に出ようとしなければ、ユダヤ人の命はどうなっていたでしょうか。私たちはロボットではないので、神の御計画に従うことも従わないこともできます。それゆえ、私たちの選択には責任が伴います。もし、エステルが王の前に出向かなかったとしたら、ユダヤ人はどうなっていたでしょう。また、エステル自身はどうなっていたでしょう。私たちは様々な場面で選択を迫られています。神に従うことも従わないこともできます。しかし、神に従ったとき、私たちは神の助けを得ますが、神に従わなかった場合、その責任は自分で背負わなければなりません。聖書を読むなら、誰が神のことばに従い、誰が神のことばに従わなかったか明らかにされています。そして、神に従った者は、神により祝福を受け、従わなかった者は裁きを受けました。確かに私たちはこの地上において神の御計画に従うことが難しいこともあります。しかし、神は聖書を通して、どうすればよいかを教えてくださいます。私たちは、アブラハムの事、ヤコブの事を知っています。また、ペテロやパウロの事も知っています。私たちは偶然に生まれた者ではなく、神の御計画と愛によって命が与えられました。その使命を大切にし、自分の欲のためではなく、神の御心に従う人生を歩みましょう。