謙遜によって得る神様の恵み

「謙遜によって得る神様の恵み」箴言22章4節

旧約聖書も新約聖書も私たちに、謙遜を身に着けるように教えています。また、謙遜を身に着けることによって、富や誉れを得ると教えています。高い地位を得て、なお、謙遜でいることは難しいことです。政治家が高慢になって、失脚するのを多く見ます。

第二列王記の5章に、アラムの将軍ナアマンが登場します。ナアマンはアラムの国では尊敬されていましたが、らい病で苦しめられていました。当時、らい病は原因がわからず、神様から罰として与えられた病だと信じられていました。そのナアマンの女奴隷の中に、イスラエルの国から捕らえられた女性がいました。彼女は主人であるナアマンに言いました。第二列王記5章3節「もし、ご主人様がサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あのかたがご主人様のらい病をなおしてくださるでしょう。」彼女が主人のナアマンに紹介した預言者とは、北イスラエルの有名な預言者エリシャのことです。ナアマンはアラムの王にお願いして、北イスラエルの王様に手紙を書いてもらい、北イスラエルへと向かいました。北イスラエルの王は、アラムの王からの手紙を受け取り、アラムの王を恐れました。彼は、アラムの王が言いがかりをつけて、自分の国を亡ぼすためにナアマンを遣わしたと思ったのです。アラムの王の手紙を恐れる北イスラエルの王にエリシャは、ナアマンを自分のところに連れてくるように言いました。こうして、ナアマンはエリシャの家の入口に立ちました。エリシャはナアマンに使いを送って言いました。10節「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」このことばにナアマンは怒ったとあります。11節12節「何ということだ。私は彼がきっと出てきて、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアト(らい病)に冒された者を直してくれるものと思っていたのに。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないだろうか。」そう言って帰途につきました。しかし、ナアマンのしもべが主人に言いました。13節「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」ナアマンはそのしもべの声に従って、ヨルダン川に行き、七たび身を浸しました。「すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」とあります。

このナアマンの行為の中にいくつか、彼の謙遜な態度を見ます。

  • 北イスラエルの国から連れてこられた、女奴隷のことばを信じて、北イスラエルの預言者エリシャのもとを訪ねたこと。
  • エリシャが自分の前に現れず、ヨルダン川に七たび身を浸すように言われた時、一度は怒って帰ろうとしたが、しもべのことばに従って、ヨルダン川で身を洗ったこと。

ナアマンはアラムの国では、尊敬される将軍です。その彼が、イスラエルから連れてこられた女奴隷のことばを信じて、隣の国の北イスラエルの国に行くなど、普通は考えられないことです。また、自分のしもべのことばに耳を傾けることは、謙遜な心がなければ、耳を傾けることもできません。ここに、ナアマンの謙遜な姿をみます。高い地位につけばつくほど、自分より低い者の声に耳を傾けることは難しいことです。

神様の恵みを受けることも同じことが言えます。神様が私たちの与えてくださる救いは、ただで頂けると聖書は教えています。しかし、一般の男性にとって、何もしないで救われることに違和感を感じます。社会は競争の世界です。勝つか負けるかの厳しい社会です。そのような競争の社会で生きているものにとって、何の努力もしないで、ただで、救われるという教えは、受け入れることはできません。男性は、努力して得る達成感を喜びとします。そんな男性たちに神様の恵みは価値を見出すことができません。また、人から憐れみをうけることもプライドが許しません。それでも、聖書は、救いについて、ただで頂ける神様からの恵み(プレゼント)と教えています。私たちがこの神様からの救いを得るためには、ナアマンのような謙遜な態度が必要です。もし、救いが、人の努力によって得るならば、人は自分が行った努力を誇る者になってしまうでしょう。神の恵みによって救われるとは、私たちを救ってくださった神様を誇ることです。私たちはすぐに、高慢になって、自分を誇りたいものです。高慢は罪です。また、その高慢によって、神様からの恵みから離れ、サタンの奴隷となってしまうのです。

アブラハムの孫にあたるヤコブは、兄を退けて長子の権利を奪い、父をだまして兄から神の祝福を奪うほど、神様の祝福を求めた人です。また、彼は賢く、人をだましても自分の目標を達成する人でした。しかし、そんな彼でもどうすることもできない状態に追い込まれました。叔父のラバンの所から逃れて、故郷に帰る時、故郷にいる兄を恐れたのです。また、兄に帰国の報告を伝えると、兄のエサウが400人を連れて出てきたことを知りました。そこでヤコブは、自分の家族を二つに分けて、一つの群れが襲われても、一つの群れが助かるように考えました。それでもヤコブは兄への怖れが消えません。ある晩、ヤコブはヤボクの川岸に立ち、家族を向こう岸に渡し、自分ひとり、反対の岸に残りました。そこでヤコブは不思議な体験をしました。ヤコブはここで神と格闘したのです。神はヤコブのもものつがいを打ち、ヤコブのもものつがいが外されました。それでも、ヤコブは神にしがみついて離れようとしませんでした。そこで、ヤコブは神より「イスラエル」という名を頂いたのです。この戦いでヤコブが得た物は「イスラエル(神と戦い人と戦って勝つ)」という意味の名。ヤコブが失った物は、もものつがいが外され足をひきずる者となったこと。それは、彼の強さを神様が砕かれたこと、それは、彼の自我を神様が砕き、弱さを与えられたことです。自分の強さを誇る者を神様は助けることができません。新約聖書のパウロも、自分の弱さを誇ると言っています。コリント人への手紙第二12章9節10節「しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。」ヤコブは自我の強い人でした。それゆえ、彼が神様の祝福を受けるためには、弱くされる必要がありました。それゆえ、神はヤコブと格闘し、彼のもものつがいを外されたのです。謙遜になるとは、本来の自分の姿を受け入れることです。自分の弱さ、小ささを認める時、人は、周りの人に対して、また、神様の前に謙遜になれるのです。そして、私たちが神様の前に謙遜になる時、神が本当に自分の神となり、私たちを罪から救い、私たちが想像もできないような祝福を備えてくださるのです。