謙遜は栄誉に先立つ

士師記7章1節~7節
私の好きな聖書のことばに「謙遜は栄誉に先立つ」ということばがあります。これは、箴言15章33節の御ことばです。謙遜な者に栄誉は約束されているという意味です。では、謙遜な者とはどのような者でしょうか。それは。態度が紳士的というよりも、人の意見や忠告に耳を傾ける者のことではないでしょうか。逆に、高慢な者とは、人の意見や忠告に耳を傾けない、かたくなな心を持った者ではではないかと思います。では、神の前に謙遜な者とはどういう者でしょうか。それは、御ことばを聞いてそれを実行する者のことです。私たちは、神のことばが、実行できることであれば従いますが、自分の力を超えた不可能なことには、耳を塞いでしまう者ではないでしょうか。今日、お話しするギデオンは、神のことばに忠実に従う謙遜な人でした。ギデオンを通して神のことばに従う者の幸いについて考えます。
1、神との出会い(士師記6章)
ギデオンが聖書に登場するのは、士師記6章からです。この時、イスラエルの民は、七年間ミディアン人に苦しめられていました。この時、イスラエルの民は、神に助けを叫び求めました。そこで神は一人の預言者をイスラエルの民に遣わし、彼らの罪を指摘し、悔い改めを求めました。そして、主の使いがミディアン人を恐れて、ぶどうの踏み場で隠れて小麦を打っている、ギデオンの前に現れ、こう言われたのです。士師記6章12節「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」ギデオンは主の使いにこのように言いました。13節「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」ギデオンは現状を見て、主の使いのことば「主があなたとともにおられる」ということばを信じることができませんでした。このことは、私たちも同じように考えることがあるのではないでしょうか。神がともにおられるということは、神の御守りがあり、苦しみなどないと考えます。そして、不幸や苦しみは、神から捨てられたからだと考えてしまいます。ギデオンは先祖から伝えられた、出エジプトの出来事を知っていても、それは、過去の出来事であり、苦しみの中にいるギデオンには何の力にもなりませんでした。また、主の使いはギデオンにこのように言われました。14節「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」ギデオンは主の使いに言いました。15節「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存じのように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」ギデオンは現実を見て、自分の力では主の言葉に従えないと答えました。主の使いはギデオンに言いました。16節「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ。」ここでギデオンは自分と話しておられるのが、本当に主の使いであるのかしるしを求めました。主の使いはギデオンが準備した供え物を焼き尽くすことによって、ご自身が主の使いであることをギデオンに示されました。また、主の使いはギデオンに、彼の父が築いたバアルの祭壇を壊すように命じました。ギデオンは父や町の者を恐れ、昼ではなく、それを夜おこなったとあります。この時、ギデオンはまだ人を恐れる者でした。
しばらくして、ミディアン人とアマレク人がヨルダン川を越えて攻めてきました。この時、主の霊がギデオンに降り、彼は、マナセやアシェル、ゼブルン、ナフタリ族に召集を呼びかけました。また、ギデオンは再び神にしるしを求めました。一度目は、「羊一匹分の毛だけを置き、その毛だけに露が降りて、周りの地面全体が乾いた状態にすること。」二度目は「羊の毛だけが乾いていて、周りの地面全体に露が降りるように。」神は、ギデオンの願いに二度とも応えてくださいました。神は、不安なギデオンを強めるために、しるしを通して、神がともにおられることを示してくださったのです。
2、神の言葉に従うギデオン(7章)
士師記7章で、ギデオンの呼びかけに応じて、三万二千人がギデオンのもとに集まりました。それを見て主はギデオンに言われました。2節3節「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエル人が『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。今、兵たちの耳に呼びかけよ。『だれでも恐れおののく者は帰り、ギルアデ山から離れよと。』すると、兵のうち二万に二千人が帰って行き、一万人が残った。」これから戦が始まろうというのに、主は兵が多すぎるとギデオンに言われたのです。ギデオンはどう思ったでしょうか。せっかく大勢の兵隊が集まってくれたのに、それでも、彼は神の言葉に従い、神の言葉を兵士たちに伝えました。すると、二万二千人が帰り、一万人が残ったとあります。それでも、主はまだ兵が多いとギデオンに言われました。今度は、兵隊を水辺に連れて行き、犬が舐めるように水を飲んだものと、手で水を口に運んだ者とに分けるように言われました。そして、手で水を口に運んだ者三百人を残し、そのほかの兵士を帰すように言われたのです。せっかくギデオンの呼びかけに応えて、三万二千人が集まったのに、三万一千七百人を帰し、三百人で戦うように神はギデオンに命じられたのです。普通ならば、神の言葉を無視して、三万二千人で戦いに出かけるのではないでしょうか。しかし、ギデオンは神の言葉に従い、三百人で戦いに出かけました。また、神が三百人を選んだのは意味がありました。ギデオンは三百人に、角笛とからの壺を持たせ、その中にたいまつを入れさせました。そして、ギデオンの合図で、一斉に角笛を吹き、壺を割ってたいまつを掲げることによって、ミディアン人たちが大勢の軍営に囲まれたように見せかけたのです。ミディアン人やアマレク人たちは夜間に襲われ、あるものは同士討ちし、ある者はパニック状態に陥り、人々は恐れ急いで逃げだしました。ギデオンたちの大勝利です。もし、三万二千人で戦っていたら、このような大勝利を得ることができたでしょうか。この勝利は、ギデオンが神の言葉に謙遜に従ったから受けることができた勝利でした。
私たちは、見えない神の力に頼るよりも、目に見える現実の力に頼りやすいものです。しかし、私たちがいつも現実だけに頼っているなら、神の助けを必要としません。私たちが自分の弱さを受け入れ、神の言葉に従順に従うとき、私たちは自分の力を超えた神の祝福を受けることができるのです。アブラハムは75歳という高齢の時、神の約束を信じて、神が示す地へ出て行きました。そして、神の約束通り、海辺の砂のような大きな民の父となりました。約束は、その時は目に見ることはできません。しかし、約束をしてくださった方を信じるとき、その約束が信仰によって現実のものになると信じることができるのです。神はどのようなお方でしょうか。神は必ず約束したことを叶えられるお方です。私たちが謙遜に神の約束を信じるとき、神は報いとして私たちに祝福を準備してくださるのです。