2019年6月2日 主日礼拝メッセージ

「生きるにしても、死ぬにしても」 ピリピ人への手紙 1章12~21節 金田洋介牧師

パウロはピリピ教会の信徒らに、獄中にある自分を支えてくれたことの感謝、彼らの成長に対する喜び、そして自らの証しも加えてこの手紙を送りました。特に本日の箇所では、彼がキリストを伝えたことによって捕らえられたことが福音の前進につながったことの証しと、彼の大胆な信仰告白が綴られています。

パウロの告白~全てはキリストが崇められるため~

パウロはイエスを伝えたことによって捕らえられ、軟禁状態になってしまいました。ところが、彼のもとに出入りする人々を通し、また、彼を見張る兵士たち(皇帝直属の兵士たち)を通して、イエスの福音が広がる結果になったのです。中には、パウロに対抗して伝える人も起こされる事態に。パウロは「 たとえ純粋な動機ではないにせよ、結果的に復活されたキリストが伝えられているのだから、私はそれを喜んで」いました。さらにパウロは、生きるにしても、死ぬにしても、キリストが崇められることを切望していると告白しました。それはすなわち、彼の人生の全てを指しています。「良いことも悪いことも、成功も失敗も、長所も短所も、誉れも恥も、たとえ死ぬことになったとしても、すべてがキリストの素晴らしさを伝えることに用いられるように」ということです。

新しい人生の目的~生きるにしても、死ぬにしても~

パウロの姿から、イエスを救い主として信じた人には新しい人生の目的が与えられることが分かります。それは、自分の人生をキリストが崇められるために生きるという目的です。強さも弱さも、成功も失敗もみな、キリストが崇められるために用いられるのです。ただし、御霊を無視し、自分中心に歩むなら、成功による誉れはその人にだけしかとどまりません。そして、失敗は失敗としてしか残りません。しかし、御霊を中心に、また神の御言葉を中心に歩んで行くなら、成功はもちろん、失敗でさえも神の栄光のため、神の御名が崇められるための証しとなるばかりか、全てを益に変えてくださる神の御力が現されていくのです。

「生きるにしても、死ぬにしても、ただキリストが崇められるように」と、告白できる信仰者とならせていただこうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、ゆり(カサブランカ)、ひまわり、グラジオラス、モンステラです。

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、血管イキイキ鯖缶寿司、お吸い物です。鯖は梅肉で和えてあり、さっぱりといただけました。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。