投稿者「mayumi」のアーカイブ

2023年2月19日 主日礼拝メッセージ

「金持ちとラザロ~光のある間に~」ルカの福音書  16章19~31節、ヨハネの福音書  12章35~36節 金田洋介牧師

 

イエス様が語られた、金持ちとラザロの譬え話です。金持ちは毎日贅沢に遊び暮らしていましたが、ラザロは貧しく、身体中に腫物があり、金持ちの家の前に横たわりながら、残飯で腹を満たしたいと思っていました。ところが、彼らの立場は死後、逆転するのです。

  • 死後の金持ちとラザロ

しばらくしてラザロは死に、金持ちも死にました。ラザロはアブラハムの懐、パラダイスに連れて行かれ、金持ちは火の燃えるよみ(ハデス)に連れて行かれました。パラダイスとよみの間には大きな淵があり、互いに行き来することはできません。

  • 金持ちの嘆願

金持ちは、アブラハムに二つの願いを言います。ラザロを遣わして私の喉の渇きを潤してほしい。しかし、それはできないことです。二つ目は、ラザロを、まだ生きている自分の兄弟たちの所に遣わしてほしい。そうすれば兄弟たちは悔い改め、こんな苦しい所に来ないで済む,と。しかし、アブラハムは、彼らにはモーセと預言者たちがいると言います。聖書のことです。聖書に耳を傾けないなら死人がよみがえっても聞き入れない、と退けられました。

  • 永遠の場所を分けた理由

金持ちは、自分が豊かなのは神に祝福されているから。ラザロのように貧しく病を負う者は神から見放された者、愛されていない者、汚れた者と裁いていましたが、死後、立場は逆転しました。彼がよみに行ったのは、彼が悔い改めなかったからです。

  • 悔い改めるとは

悔い改めるとは、方向転換。神のもとに帰るということです。神のもとで守られ、養われ、生かされている、それが自分の本来の姿と気付き、神のもとに帰ることなのです。金持ちは、神を無視し、金銭を愛し、神に心を向けず聖書(神の御言葉)を軽んじて生きていました。一方、ラザロにとって、唯一頼れるお方は神でした。何も持たず人の目には哀れな人生でしたが、神だけを頼って生きました。私たちも、ラザロのように神に一番の信頼を置き歩みたいものです。

  • 光のある間に

私たちは、永遠に過ごす場所を、生きている間に、光のある間に決断しなければなりません。神の御言葉を真剣に聞き、日々の歩みを点検し、悔い改めるべきことが示されたら、悔い改める。神の方を向いて、神と共に日々を過ごし続けるのです。そして、私たちは伝える人となりたいのです。罪の暗闇を歩くのではなく、光を信じ、悔い改めて光の子どもとなれるように、と。自分自身の永遠の場所を堅く保ち続けると同時に、人々の為、光のある間に、イエスの福音を宣べ伝えようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、八重ユリ、梅、ストック、オンシジュームです。

2023年2月12日 主日礼拝メッセージ

「神の愛が全うされるために」ヨハネの福音書 13章34~35節 ヨハネの手紙第一 4章7~12節  金田ゆり牧師

 

私たちクリスチャンにとって、イエスのお言葉は最も重要なものです。イエスは神ご自身として、権威をもって新しい戒めを与えられました。それは、わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい、という戒めです。これは私たちにとって最も大切な戒めです。ヨハネは、十字架に示された愛を目撃し、イエスの戒めを魂の奥底で理解し、のちの日にヨハネの手紙を書き残すのです。

  • 神は愛だから Ⅰヨハネ4章7~8節

ヨハネは、福音書でも手紙でも、本日開いた箇所の愛という言葉を全て「アガペ(神の愛)」で書いています。アガペで愛し合おう。アガペがある者は神を知っている。アガペがない者は神を知らない。なぜなら、神は、アガペで在るから…。人間の愛は、どこか利己的で打算的です。不確かで不安定、不純物が多く、限界があります。愛が冷え切って、どれほど多くの人が苦しんでいるでしょうか。ヨハネは、人間の愛と神の愛を全く区別して、神の愛で愛し合いましょうと言いました。

  • 示された神の愛 9~10節

では、神の愛とはどのような愛ですか。神は、ひとり子イエスを、神にとって最も大切で決して代わりはいない存在であるイエスを、この世に遣わされました。罪を犯し滅びを待つだけの私たち、その罪を全てイエスに負わせて十字架につけるためです。父なる神も、イエスも、全てを犠牲にしてあなたを愛されました。あなたが滅びないためです。アガペは、罪を犯す者の為に全てを犠牲にする愛、見返りを求めない無償の愛、変わることのない永遠の愛、具体的に行動に現わす愛。最も苦しく絶望の中にある時に溢れ出た愛。これが完全な愛、アガペです。このアガペがすべて現わされたのが、イエスの十字架なのです。

  • 神の愛が全うされるために 11~12節

ヨハネは、神がこれほどまでに愛してくださったのなら、私たちも愛し合うべきだと勧めます。彼はイエスの戒めの意味を深く理解しました。神がイエスを通して愛してくださったのは、私たちが愛し合うためだと。十字架で神の愛は示されました。しかし、神の愛が全うされるのは、私たちが愛し合う時なのです。十字架の愛を示されただけでは神が愛された目的は完了していません。私たちが愛し合う時、神の愛は完了されるのです。わたしの愛は、ここに全うした…と父なる神とイエスの犠牲が本当に報われるのは、私たちが愛し合う時です!神が、私を愛してくださいましたから…と、あなたが小さなことでも愛を現わすことができたなら。それはアガペではないでしょうか。神の愛が、私たちの内に全うされ、人々がそこに神を見ることができますように。イエスのまことの弟子だと認められますように。祈りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、モンステラ、コデマリ、アマリリスです。

 

2023年2月5日 主日礼拝メッセージ

「キリストの後に従って」ルカの福音書 9章21~23節  金田洋介牧師 

 

これからイエス様が自分の身に起ることを弟子たちに伝えるとても大切な場面です。イエス様は「人の子(イエス様)が、多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえる」ことこそが、神様のご計画だというのです。その上で弟子たち言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」と。この言葉は、今日イエス様の弟子とされている私たち対する言葉でもあります。今回は「自分を捨てる」「自分の十字架」二つの言葉に注目したいと思います。

①「自分を捨てる」とは、自分は自分のものではなく、神様のものであると信じ、認めること。聖書は、私たちが代価を払って買い取られた存在であると教えています(Ⅰコリ6:20)。代価とはイエス様の命を指します。イエス様の尊い命を犠牲にして、私たちはサタンの支配、罪と死の支配から救われ、神の子とされたのです。ですから、神様のものであることを自覚し、神様中心に生きる者でありたいのです。

②「自分の十字架」についてですが、イエス様の十字架は、私たちの罪の身代わりの十字架、私たちを罪から救うための神様の裁きとして、予め神様が定められたご計画、御心でした。ですから、イエス様にとっての「自分の十字架」とは、神様のご計画に従い、私たちの罪の身代わりとして裁かれ、死ぬということだったのです。

では、現代を生きる私たちにとって、「自分の十字架」とは何を意味するのでしょうか。それは、神様がお示し下さった御心です。イエス様は私たちのために十字架を背負われました。それが神様の御心だったからです。ですから、イエス様の弟子である私たちも、神様の御心に従って生きる者でありたいのです。「自分の十字架」という名の「神様の御心、神様のご計画、神様からの使命」に、自ら進んで従って生きるのです。では、神様のご計画、御心はどのようにして知ることができるのでしょうか。それは、御言葉によって、また、祈り求めることによって知ることができます。むしろ、御言葉を読み、祈ることこそ、自分が負うべき十字架であることに気づくのです。誰かのためにとりなし祈り、御言葉を実行する。隣り人になって寄り添い仕える。献げる。平和をつくることに努める。社会のルールに従って生きる。私たちが当たり前のようにしていることの中に神様のご計画(御心)があるのです。

自分を捨て、自分の十字架を負う歩みは、決して容易なことではありませんが、私たちの助け主であるイエス様が私たちと共に歩んでくださり、導いてくださいます。「神様、私が負うべき自分の十字架は何でしょうか?」まず、素直に祈り求めてはいかがでしょうか。御言葉に耳を傾け、祈り求め、神様に心を向けていく時、必ず、負うべき自分の十字架が示されるはずです。自分を捨て、日々自分の十字架を負って、イエス様の後に従って参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、ストック、スターチスです。

 

2023年1月29日 主日礼拝メッセージ

「キリストに結ばれて歩みなさい」コロサイ人への手紙2章6~7節  金田洋介牧師 

あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、(※)キリストにあって歩みなさい。(※)新共同訳…キリストに結ばれて歩みなさい。今週の中心聖句です。新共同訳では「キリストに結ばれて歩みなさい」とあります。これはキリストに結ばれていることを自覚して生活しなさいということだと私自身教えられています。イエス様を信じた時からイエス様に結び合わされ、離れないものとされているのです。では、イエス様に結び合わされているとはどういうことなのでしょうか。

・キリストと共に生活する

エペソ3:17に「あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。」とあります。イエス様を信じ受け入れた人はみな、自分という家にイエスをお迎えしたようなものだと言えます。特にこの「住む」という言葉は、「定住する」という意味があります。つまり、あなたがたの心の内に住んで下さったイエス様を、どこかの部屋に追いやるのではなく、あなたの家の中心、つまり心の真ん中に定住していただき、あなたの主人になって下さるようにしなさいということなのです。イエス様に結び合わされているとはそういうことなのです。

・キリストの愛に結ばれて生活する

次もエペソから。3:18~19に「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを…知ることができるように」とあります。イエス様の愛は、どんな人にも与えられ(広さ)、永遠にまで至り(長さ)、卑しい私たちを神様の御許に引き上げ(高さ)、罪による死と滅びという絶望の淵の深みにまで届く(深さ)、偉大な愛だと教えています。このキリストの愛は、神の家族とされた聖徒たち一人一人の愛の関係の中に現れます(愛を体験できます)。どうか、あなたがキリストの愛に結ばれ(愛を体験して)、あなたの実生活の中にキリストの愛が現れますようにと祈ります。

・キリストの教え(御言葉)に結ばれて生活する

最後に、キリストの教え(御言葉)に結ばれて生活するということです。それは、キリストの教え、御言葉を実行することです。聖書には「聞いて行う者となりなさい」と教えています。ただ聴くだけで終わらせないで、実行していくのです。その先に待っているのは、溢れる感謝です。キリストの言葉を信じ従った時(実行した時)、感謝せずにはいられなくなる」という未来が待っているのです。

私たちはすでにキリストに結ばれています。それを自覚することが第一歩です。あなたがキリストと結ばれた者として歩んで行くなら、キリストと結ばれたあなたを通して、あなたの周囲にいる人たちがキリストの愛を知り、キリストの御言葉の正しさと力を知るでしょう。そして、最後にはその人自身もキリストに結ばれてゆく、そう信じ、確信しています。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、モンステラ、ユリ、ガーベラ、スターチスです。

 

 

2023年1月22日 主日礼拝メッセージ

「主による結末」ヨブ記 42章1-17節、ヤコブの手紙 5章11節   金田ゆり牧師 

ヨブ記最後のメッセージです。ヨブに起こった出来事の結末を見ましょう。

  • ヨブの悔い改め~神の絶対的主権と神への絶対的信頼 1~6節

ヨブは神への畏れをもって身を低くしました。自然の法則も自分の人生も理解していないのに、何もわかっていないことを傲慢にも言ってしまったと、自らの愚かさを認めたのです。彼は、苦しみに遭ってからは灰の中に座っていましたが、このちりと灰こそ私にふさわしいと悔い改めたのでした。神の絶対的主権。自分がわからなくても、神がされることは絶対に正しい、とひれ伏したのです。人は、神の絶対的主権を疑い、信頼できなくなった時、神から離れて罪を犯します。ヨブは苦しみのあまり、一度は神の主権を、その正しさを疑ってしまいましたが、神の愛に触れられ、神の主権を信頼すると決めて悔い改めました。起こる全てのことが理解できなくても、神の絶対的主権を信頼するものでありたいのです。

  • 三人の友を赦し、神に執り成したヨブ 7~9節

神は、ヨブの友人エリファズ、ビルダデ、ツォファルに怒りを燃やされました。人の狭い理解で神を語り、この苦しみはヨブの罪のせいと決めつけてヨブを苦しめたからです。ヨブは人の苦しみに寄り添い、神の慰めを語る人でしたが、この三人は苦しむヨブに寄り添うことをしませんでした。ヨブを断罪した三人は、神に断罪されてしまうのでした。しかし、ヨブはボロボロで灰を被ったまま、彼らの罪を赦し、執り成しの祈りを捧げました。十字架上のイエスを想起させます。十字架の愛によって赦された者として、赦す者となること。これが十字架の目的で在ります。自分の力では赦せません。十字架の愛だけがさせてくださいます。そして、それは神が最も喜ばれる人の姿なのです。

  • 主による祝福の結末 10~17節、ヤコブ5章11節

ヨブが三人を赦して、彼らの罪の赦しを祈った時、神はヨブの身体を元通りにされました。彼は無一文になったのに、神は彼の財産を回復され、以前の倍にされたのです。最も注目したいのは、また息子七人、娘三人を持ったことです。彼は20人の父となりました。サタンが所有物扱いして手を下した10人の子どもたちは、今、神の元にいるということなのです。彼は幸せに生涯を全うし、今、この時も20人の子どもたちと永遠の祝福に与っているのです。あなたは、これまで、どんなことで苦しみ涙してきましたか。神はその涙を何一つ忘れておられません。必ず、あなたの涙に報いて下さるのです。ヨブの物語を知ったあなたは、主による祝福の結末を見るのです。ヨブが年老いるほどに祝福されたように、あなたも必ず祝福されます。あなたの人生の最善は、これから。そして、イエスの十字架と復活を信じた者には、永遠の祝福が待っているのです。主による祝福の結末とみ言葉の真実を体験させていただきましょう!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、トルコキキョウ、カーネーション、ロウバイです。

2023年1月15日 主日礼拝メッセージ

「憐み深い神の御手に引かれて」ネヘミヤ記 9章1~3節,6~21節  金田洋介牧師 

 

前回、神様の御言葉に従って仮庵の祭を行ったイスラエルの民。その祭りの二日後のことです。民はみな集まって断食をし、粗布を着て、土をかぶりました。民は神様の前の在り方(生き方、日々の過ごし方)を立て直すために集まり、悔い改めたのです。彼らは昼間の半分(約6時間)を神様の律法を朗読する(聴く)時、神様に告白する時(罪や感謝の告白)、神様を礼拝する時としてささげたのです。すると、次第に民の心が神様の前に開かれていきます。今日、私たちも神様を礼拝しています。これからも、毎週の礼拝を真心からささげていく時、神様は私たちの心を開いて下さいます。時には優しく、時に堅い岩を砕くように、神様の言葉が迫ってくることを体験するのです。しっかり神様に心を向けるお互いでありたいのです。

5節後半以降、エズラは(口語訳に明記)神様によって天地創造がなされてから、今日に至るまでの長い歴史を振り返りながら、神様の憐みと自分たちイスラエルの民の背きの歴史を告白しています。天地創造の神様への賛美(5b~6節)、アブラハムの選びと祝福の約束(7~8節)、エジプトからの救出(9~11節)、神様の律法の付与と荒野における神様の養いと導き(12~15節)、荒野で犯した罪の告白(16~17節前半)、神様の憐れみへの感謝(17節後半~21節)、カナンの地での生活からバビロン捕囚(22~31節)、捕囚からの帰還~現在(32~37節)。37節まで読むとより分かるのですが、イスラエルの民の歴史は神様への反抗(背き)の歴史でした。どれほどイスラエルの民が神様に背いてきたか、私たちはこれまでの学びを通して知っています。神様の御力をあらゆるところで体験してきたにもかかわらず、簡単に神様以外の神々を信じ求める姿。神様の御言葉に背き、従わない姿。困難に遭うと一生懸命になって神様に助けを求めますが、解決すると手のひらを返すように態度を変える姿。そんな姿ばかりでした。それと共に、どれほど神様が憐み深いお方であるかも学んできました。ここでエズラが代表して告白していますように、背き続けたにもかかわらず、神様は民を見捨てず、憐れんで下さったのです。

しかし、あなたはその大いなるあわれみにより、彼らを滅ぼし尽くすことはせず、お見捨てにもなりませんでした。あなたは、情け深くあわれみ深い神です。(9:31)

イスラエルの民の歴史は、神様の憐みなしでは語れません。民は憐み深い神様の御手に引かれて歩んで行ったのです。これは今を生きる私たちにとっての望みです。この憐み深い神様が私たちの神様であり、私たちの人生はこの神様の御手に握られ、導かれているのです。新聖歌474「主が私の手を」の賛美にあるように、憐み深い神様があなたの手をとって、その人生を、信仰生涯の旅路を共に歩んで下さいます。神様はいつまでも変わらずあなたを愛し、必要ならば思いと行動を直し整え、導いて下さるのです。何という幸いでしょうか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、金魚草、ブルーベリー(枝)、スターチス、トルコキキョウです。

2023年1月8日 主日礼拝メッセージ

「主を喜ぶことは力」ネヘミヤ記 8章1~12節  金田洋介牧師 

 

先週に続いてネヘミヤ記からのメッセージです。イスラエルの民はバビロンから帰還こそしましたが、解決しなければならない問題、課題が山積していました。そのような中で、神殿や城壁が再建されたのは神様の偉大な力以外の何ものでもありませんでした。神様の御力を体験した民の信仰の目は、次第に開かれ始めます。

神の御言葉を聴くイスラエルの民

神様の言葉に飢え渇いていたイスラエルの民は、モーセの律法に一生懸命耳を傾けました(3節)。御言葉を聞き理解した民は、神様の祝福を失った原因が神様の言葉を軽んじ、神様に逆らい続け、罪を犯し続けたことにあったこと、そして、国の滅亡もバビロン捕囚も、全て神様が警告していた通りになったことを知り、嘆き悲しみました(9節)。すると、総督のネヘミヤ、祭司であり学者であるエズラとレビ人たちは、嘆き悲しむ民に向かって「悲しんではならない。泣いてはならない。…【主】を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」(9~10節)と言いました。

「主を喜ぶことは力」とは

確かにイスラエルの民は神様に背いて罪を犯し、神様の言葉の通りに民は裁かれました。しかし、滅亡から70年後、神様は約束通りに民を捕囚から帰還させ、やがて破壊された神殿と城壁が再建されたのです。民は神様の言葉が真実であり、また、神様は愛と憐みに満ちておられるお方であることを捕囚(失敗、痛み)と捕囚からの帰還(回復と再建)から学びました。ですから、ネヘミヤやエズラたちが語った主を喜ぶとは、「この愛と憐れみに満ちた神がイスラエルの神であること、このお方があなたがたの力(避け所、守る力)となって下さることを喜びなさい」と教えたのです。イスラエルの神様は私たちの神様です。この素晴らしい神様が私たちたちの神様であられ、私たちの力となって下さるとは何と幸いなことでしょうか。

この後、民は神様の御言葉に従い、ヌンの子ヨシュアの時代からなされていなかった仮庵を作り、共に祝いました(17節)。すると、御言葉を実行したことによる大きな喜びが民の中に起こったのです。神様の御言葉に聴き従い、御言葉を実践することは、今日の私たちにも求められている応答です。この時のイスラエルの民のように、飢え渇くように御言葉を求める者、御言葉を行うことによってもたらされる大きな喜びに与る2023年となりますよう、神様に祈り求めましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、アレカヤシ、トルコキキョウ、ガーベラ、バラ、葉牡丹です。

2023年 1月1日元旦主日礼拝メッセージ

「さあ、再建しよう」ネヘミヤ記 2章1~8節、17~18節  金田洋介牧師 

 

バビロン捕囚から100数十年後、ペルシアのアルタクセルクセス王の献酌官だったネヘミヤは、荒廃した故郷エルサレムと、すでに帰還していた同胞たちの窮状を知りました。彼は心を痛めながら神様の導きを祈り求めていました。すると四か月後、ネヘミヤにチャンスがやってきました。王の給仕の際、エルサレム帰還と城壁再建の願いを告白する機会を得たのです。そもそも、外国人でもあるネヘミヤが献酌官をしていることも驚きですが、王が彼の顔色を見て心配して声をかけ、彼が自分の思いを王に直接告げることも異例のことであったと思います。神様の導き以外考えられません。この絶好機を得たネヘミヤは、何よりも神様への祈りを最優先にしました。それは数秒の短い祈りだったと思われますが、彼の普段の生活の中心に神様への祈りにあったからでしょう。私たちも見習うべき姿勢です。祈りの後、ネヘミヤが故郷への帰還と城壁の再建を王に願うと、帰還の許可をもらうことができたばかりか、門や城壁再建の資材をも与えられたのです。

帰還したネヘミヤは同胞たちを励ましますが、再建の為の建築計画であるとか、敵の妨害に対する対策などについてなどではなく、神様がネヘミヤ自身にして下さった事々、そして、国の最高権力者である王の心をも動かされた、神様の力と助けを証したのです。つまり、私たちイスラエルの民と共におられる神様は全能であり、どんな困難な道も開いて下さるお方、ご自身の御言葉の約束を実現されるお方であることを民に伝え、神様を信じ、神様を見上げるよう語ったのです。すると民の心は突き動かされて「さあ、再建しよう」と、神様を信じる信仰によって立ち上がることができました。この後、幾多の妨害を乗り越え、100数十年間、再建しようにもできなかった城壁を、僅か52日で完成させたのです。

神様は「あなたにも崩れたまま放置している城壁はないか?」と語っておられます。崩れたままの城壁とは、日頃から気付いていながら、向き合おうとしないで避けてきた課題や問題のことです。「何とかしなければ」と思いながらそのまま放置している、日常生活、人間関係、信仰生活、自分自身の性格や性質についての課題や問題がきっとあるはずです。神様は気付いていながらどうすることもできない私たちを励まし、力を与え、一緒に取り組んで下さる愛のお方です。主の年2023年を迎えた私たち。イスラエルの民が城壁の岩を一つずつ積み上げていったように、私たち一人一人、それぞれの崩れた城壁を再建していく一年でありたいのです。神様はあなたに解決と回復の未来を用意しておられます。さあ、再建にとりかかろう!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、松、ユリ、葉牡丹、バラ、アルストロメリア、ランです。

2022年12月25日 クリスマス・年末感謝礼拝メッセージ

「夜空に響く神への賛美」ルカ2:8-20 詩篇95:1-3  金田洋介牧師 

 

本日の箇所の前の段落(1~7節)は、イエス様の誕生について記しています。そして、8節から羊飼いたちの場面に変わります。神様のみ使いが羊飼いのもとに現れ、救い主の誕生を知らせる大切なシーンです。

当時の羊飼いが置かれていた環境はとても厳しいものであったと言われています。周囲が人口調査の為に動いているにもかかわらず、彼らはいつもの様に羊の群れの夜番をしています。まるで彼らだけ、社会から置き去りにされているようです。そんな彼らに、救い主誕生の知らせは伝えられたのです(11節)。

続いて御使いは、彼らの為のしるしとして、救い主は家畜小屋の飼葉桶の中に寝かされていると告げました(12節)。羊飼いたちは話し合った末、御使いの言葉を確かめるために出かけます(15節)。彼らは町を捜し回り、ついにイエス様のいる家畜小屋を探し当てました。羊飼いである彼らが自由に出入りできる所は限られていたと思われます。神様がイエス様を家畜小屋で生まれさせて下さったことによって、彼らは憚れることなく救い主イエス様に会うことができました。ここに神様の愛の配慮が伺えます。飼い葉桶に寝かされている救い主を見た羊飼いたちは喜びに溢れ、賛美しながら帰って行きました(20節)。世界で初めのクリスマスの夜、御使いが伝えた「大きな喜び」を受け取った羊飼いたちの讃美が響き渡ったのです。

彼らは自分たちの日常へと帰っていきましたが、救い主に会ったからといって彼らの置かれている厳しい現実は変わりません。では、なぜ神様への賛美が口から出て来たのでしょうか。それは、救い主が自分たちために生まれて下さったこと、全て神様の言われた通りであったことを目の当たりにしたからです。これは、彼らが御使いの言葉を確かめるために行動に起こした結果です(御言葉を聞いて終わりにしないで、実行していく姿は、私たちも倣うべき大切なポイントです)。この夜、彼らが体験した大きな喜びは、この後、彼らが味わうどんなに厳しい現実も打ち消すことはできなかったことでしょう(ローマ8章38~39節)。

羊飼いたちを変えた喜びは、今を生きるあなたにも与えられています。イエス様はあなたの為に生まれて下さいました。救い主の誕生を共に喜び、共に讃美しようではありませんか!特に本日は今年最後の礼拝です。思い悩むことの多い一年だったかもしれませんが、神様は私たちの疑いを確信に、憂いを喜びに、不平を感謝に変えて下さるお方です。この一年を振り返りましょう。きっと、そのような恵みの体験に気付くはずです。たとえ、恵みの体験がなく、今も悩みと苦しみの毎日だったとしても、最後には全てを感謝に変えて下さる未来が約束されていることを信じ、日々を過ごそうではありませんか。

2022年12月18日 第四アドベント礼拝メッセージ

「カナでの栄光」ヨハネの福音書 2章1~12節  金田ゆり牧師 

ヨハネの福音書2章は、イエスが誕生されて約30年後の出来事が記されています。カナで婚礼に招かれたイエスと弟子たち、裏方にいた母マリア。30歳になられ公生涯に入られたイエス様と母マリアとのやり取り、その中で現わされたイエスの栄光を見ましょう。

  • 母と子から神と人の関係に 3~4節

婚礼でトラブルが起きました。招待客をもてなすための、ぶどう酒がなくなったのです。花婿とその家族の信頼が失墜する、大変な失態でした。マリアは息子であるイエスに「ぶどう酒がありません」と頼ります。しかし、イエスは「女の方。あなたとわたしは何の関係がありますか」と返されました。もはや母と子の関係ではなく、神と人との関係を示されたのです。マリアはイエスが神の子であることは理解し、思い巡らしてここまで来ましたが、ここでイエスは、明確にマリアの主、神となられたのでした。あなたとイエス、一対一。どんな関係にありますか。イエスは、あなたのわが主、わが神であられますか。

  • このお方が言われることは何でもする 5~8節

マリアは給仕の者たちに「あの方が言われることは、何でもしてください」と指示しました。これは、マリアの、このお方が言われたことは何でもする、という信仰の言葉でした。もう窮状は訴えた。このお方は聞いてくださる。あとすべきことは、このお方の言われることは何でもする、ということだと。30年前の「私は主のはしためです」(ルカ1:38)という、しもべとしての信仰告白を、30年後、彼女はイエスに対して告白したのです。水がめ六つを水で満たす、それを宴会に持っていく…なんとも不思議なイエスの言葉。しかし給仕たちはその通りにしました。後押ししたのは、マリアの信仰の言葉でした。

  • あなたに現わされるイエスの栄光 9~11節

汲んだ水はすでにぶどう酒になっており、先に出したものより良いものでした。イエスの言われたことは何でもする、と信仰をもって生きるとき、イエスは最善のものであなたにお応えくださいます。この奇跡は、無から有を生み出す神の御子であるしるしの奇跡と栄光でした。関わった者しか知らない出来事で、神の栄光と言うには地味な印象かもしれません。しかし、あなたしか知らない、地味な日々の生活にこそ、イエスは神の御子としての栄光を現わしてくださいます。イエスを信頼して、なんでも言われたことは致します、できますようにと一歩踏み出しましょう。イエスはカナでの栄光をあなたにも見せてくださいます。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、マトリアリア、ユリ、アルストロメリアです。