「金持ちとラザロ~光のある間に~」ルカの福音書 16章19~31節、ヨハネの福音書 12章35~36節 金田洋介牧師
イエス様が語られた、金持ちとラザロの譬え話です。金持ちは毎日贅沢に遊び暮らしていましたが、ラザロは貧しく、身体中に腫物があり、金持ちの家の前に横たわりながら、残飯で腹を満たしたいと思っていました。ところが、彼らの立場は死後、逆転するのです。
- 死後の金持ちとラザロ
しばらくしてラザロは死に、金持ちも死にました。ラザロはアブラハムの懐、パラダイスに連れて行かれ、金持ちは火の燃えるよみ(ハデス)に連れて行かれました。パラダイスとよみの間には大きな淵があり、互いに行き来することはできません。
- 金持ちの嘆願
金持ちは、アブラハムに二つの願いを言います。ラザロを遣わして私の喉の渇きを潤してほしい。しかし、それはできないことです。二つ目は、ラザロを、まだ生きている自分の兄弟たちの所に遣わしてほしい。そうすれば兄弟たちは悔い改め、こんな苦しい所に来ないで済む,と。しかし、アブラハムは、彼らにはモーセと預言者たちがいると言います。聖書のことです。聖書に耳を傾けないなら死人がよみがえっても聞き入れない、と退けられました。
- 永遠の場所を分けた理由
金持ちは、自分が豊かなのは神に祝福されているから。ラザロのように貧しく病を負う者は神から見放された者、愛されていない者、汚れた者と裁いていましたが、死後、立場は逆転しました。彼がよみに行ったのは、彼が悔い改めなかったからです。
- 悔い改めるとは
悔い改めるとは、方向転換。神のもとに帰るということです。神のもとで守られ、養われ、生かされている、それが自分の本来の姿と気付き、神のもとに帰ることなのです。金持ちは、神を無視し、金銭を愛し、神に心を向けず聖書(神の御言葉)を軽んじて生きていました。一方、ラザロにとって、唯一頼れるお方は神でした。何も持たず人の目には哀れな人生でしたが、神だけを頼って生きました。私たちも、ラザロのように神に一番の信頼を置き歩みたいものです。
- 光のある間に
私たちは、永遠に過ごす場所を、生きている間に、光のある間に決断しなければなりません。神の御言葉を真剣に聞き、日々の歩みを点検し、悔い改めるべきことが示されたら、悔い改める。神の方を向いて、神と共に日々を過ごし続けるのです。そして、私たちは伝える人となりたいのです。罪の暗闇を歩くのではなく、光を信じ、悔い改めて光の子どもとなれるように、と。自分自身の永遠の場所を堅く保ち続けると同時に、人々の為、光のある間に、イエスの福音を宣べ伝えようではありませんか。