2019年6月16日 主日礼拝メッセージ

「何があっても諦めない父なる神」 ルカの福音書15章11~24節

父の日である今日、天のお父さんである、神様がどういうお方なのかを、放蕩息子のたとえ話から学んでまいりましょう。

ある人に二人の息子がいました。ある日、弟息子が父親に自分が将来いただくことになる財産を求めました。父親がまだ生きているにもかかわらず、財産を求めることは異例であり、とても失礼な話です。ところが父親は、彼の求めに応じて財産を与えました。すると弟息子は、「すべてのものをまとめて(新共同訳:金に換えて)」旅立って行ったのです。大金を手にし、自由気ままに過ごしていた弟息子でしたが、やがて全てのお金を使い果たし、おまけに激しい飢饉が起こったことによって、食べるのにも窮します。何とか就いた仕事は、ユダヤ人がしない豚の世話をする仕事。彼はその豚の飼料に手を出したいと願うほど困窮していましたが、彼を助けてくれる人はいません。憐れな弟息子。しかし彼は、全てを失った事によって我に返り、父のもとに帰ることを決心します。彼は自分の過ちを認め、自分のいるべきところは父親の所だと気付いたのです。弟息子は父に対する謝罪の言葉と、雇人の一人として扱ってもらうことを心に定め、父のところへと向かいます。

一方、弟息子の帰りをずっと待っていた父親は、遠くにいる息子を見つけると、自分の方から走り寄って彼を抱きしめ、喜んで迎え入れたのです。弟息子は心に決めていた謝罪と悔い改めの言葉を父親に伝えました。彼はもう一つの決心を伝えようとしますが父親はそれを遮り、僕たちに彼の身なりを整えさせ、祝宴の用意をするよう命じます。弟息子が父親の息子としての身分を回復した瞬間でした。何もかも失い、父親に何一つ返すことができなかった弟息子でしたが、父親は彼が自分の過ちを認め、帰る決心をし、悔い改めた、ありのままの息子を最上の愛で迎え入れたのです。

この譬えは、天の父なる神様の側にいることこそ幸いであること、そして、天の父なる神様は、この世に心を奪われて放蕩するような、不信仰、不従順な私たちの帰りを、何があっても諦めないで、待っておられることを教えています。「もう少し信仰を、生活を見直してから帰ろう」ではなく、心に示されたその時が、神様の時です。何があってもあなたの帰りを待っておられる愛の神様のもとに帰り、留まりましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、アレカヤシ、ゆり、スターチス、グロリオーサです。

あじさいの美しい季節になりました。教会の庭にも赤紫色のあじさいが咲いています。今年の梅雨入りは異例の遅さですが、水不足にならないように祈りたいと思います。