2020年11月1日 主日礼拝メッセージ

「キリストこそ私たちの平和」エペソ人への手紙 2章14~22節 金田洋介牧師

 本日の聖書箇所から、イエスこそ神との和解と平和、そして、人との和解と平和を私たちにもたらして下さったお方であることを覚えたいのです。

Ⅰ.神に近い者となる~神との和解と平和~ 

エペソ教会に集う人々のかつての姿は、まさに「この世にあって望みもなく、神もない者たち(12節)」でした。事実、彼らは異邦人であり、偶像崇拝者でした。神の民に加えられない彼らは、アブラハムに約束された神の祝福からも除外された者であり、神の民とは全く無関係な者、いわば「孤児」のような存在でした。これはエペソの人々に限らず、今日の私たちを指しています。しかし、神なく、望みなく、神から遠く離れていた異邦人の私たちが、主イエスの十字架の血によって、神と和解し、平和がもたらされたのです(16節)。

主イエスを信じる者は全て、常に神と親しく交わり、神の民にだけ約束された永遠にわたる祝福に与る者とされたのです。何という恵みでしょうか。

Ⅱ.二つのものを一つに ~人との和解と平和~ 

「二つのものを一つに」(14節)とありますが、これは敵対していたユダヤ人と異邦人を意味します。しかし、主イエスの十字架は「敵意」という壁によって隔てられた両者の間に、和解と平和をもたらしたのです。両者の和解と平和は、「新しい一人の人」(15節)、つまり「新しい神の民」の誕生をもたらしたと、そして、キリストの平和によって結ばれた、この神の民の集まりこそが、教会のあるべき姿であることをパウロは伝えたのです。

イエスによって、神との和解と平和、人との和解と平和がもたらされましたが、私たちの家庭の中に、夫婦、親子、兄弟の間に、職場や、地域の中に平和はつくられているでしょうか。神は私たちが仲たがいしたままでいることを望んではおられません。だからこそ神は、イエスの十字架によって、敵意で隔てられた私たちの関係に「和解と平和」を生み出して下さったのです。イエス・キリストの十字架は、私たちの罪の身代わりにとどまりません。人と人を和解させ、神と人とを和解させる、平和の十字架です。実に、キリストこそ私たちの平和です!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、アレカヤシ、トルコキキョウ、ユリ(リップグロス)、オオデマリです。