2021年1月10日 主日礼拝メッセージ

「主の御後について進もう~エリシャの召命~」Ⅰ列王記19章19~21節、ルカの福音書9章23節 金田洋介牧師

 Ⅰ.エリシャへの招き

エリヤは神の山ホレブを降りて行くと、牛と共に畑を耕すエリシャを見つけます。そして、エリヤが彼のところを通り過ぎるとき自分の外套を彼に掛けた…。これは、エリシャが後継者として召されたことを意味しています。エリシャは両親への挨拶の了解をエリヤから得ると、これまで使用していた用具を処分し、召して下さった神への感謝と家族への別れの宴を催しました(21節)。エリヤの「私があなたに何をしたか(19節)」という言葉は、「私は神の命じられた通りにしたに過ぎず、神の招きに応答し、決断したのはエリシャ自身なのだから、別れを告げるなり何なり、自由にしなさい」ということ。エリシャはエリヤの言葉に、主の招きへの応答の重さを実感したことでしょう。覚えておきたい大切な事は、「私は(が)主に従って行くのだ」という、私たち一人一人の信仰と決断です。

Ⅱ.イエスからの招き

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(ルカ9:23)イエスを信じた人はみなイエスの弟子です。イエスの招きに応えようではありませんか。

①自分を捨てるとは、自分は自分のものではなく、神のものであると信じ、認めること。聖書は、私たちが代価を払って買い取られた存在であると教えています(Ⅰコリ6:20)。代価とはイエスの命です。イエスの尊い命を犠牲にして、私たちはサタンの支配、罪と死の支配から救われ、神の子とされました。ですから、神のものであることを自覚し、神中心に生きようではありませんか。

②自分の十字架を負うとは、神の御心に従うということです。イエスは神の御心、ご計画に従い、私たちの救いのために十字架を背負われました。私たちもイエスに倣って、神の御心とご計画に従って生きるのです。

自分を捨て、自分の十字架を負う歩みは、決して容易なことではありませんが、私たちの助け主であるイエスは、私たちと共に歩んでくださり、導いてくださいます。力強い主イエスの御後をついて歩んで参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、アルストロメリア、千両です。