「仰ぎ見れば生きる」民数記21章4~9節 金田洋介牧師
これまで民数記の学びを重ねてきましたが、さすがにイスラエルの不満や呟きを聞くのも嫌になってきそうです。しかし、本日も民の不満から始まります(4~5節)。
特に5節の後半を他の訳では「気力もうせてしまいます」(新改訳2017:飽き飽きしている)」とあります。表向きでは食物に対する不満ですが、力のない様子が伺えます。これは、20章14節以降に記されている、カナンの地を目前にしての迂回することになった出来事とアロンの死が原因でしょう。前回開いた神様の宣告通り、アロンはカナンの地に入ることなく召されました。しかし、このような困難は今に始まったことではありません。これまで幾度となく神様は民の求めに応え、養い導いて下さいました。ですから、ここで民が取るべき行動は、神様の前で嘆き呟くのではなく、これまで憐みと真実を尽くして下さった神様に信頼するべきだったのです。
民の言動と行動に対し、神様は燃える蛇を送ります(6節)。蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人が死にました。民は神様の裁きであると理解し(彼らのつぶやきは単なるつぶやきではなく、神様ご自身を否定した罪。)、自分たちが罪を犯したことを認め、モーセに助けを求めます。するとモーセは、神様に命じられたとおりに行動し、青銅の蛇を作ると旗ざおの上に掲げました(8~9節)。すると、神様のお言葉通りに青銅の蛇を仰ぎ見る者は皆、かまれても生きることができたのです。
この出来事から教えられることは、神様は「聖(聖いお方)」であり「愛(愛なるお方)」であるということです。「なぜ、神様はイスラエルの民を愛しているのに、『燃える蛇』で民を苦しめ、死なせたのだろう」と思います。けれども、神様は「愛」であると同時に「聖」であられます。聖いお方であるからこそ、罪は罪として裁かれるのです。イエス様はヨハネ3章において、『モーセが蛇を上げたように、ご自分が全人類の罪の身代わりとして、十字架の上に上げられなければならないこと、そして、ご自身を信じる者は全て永遠の命が与えられる』と教えています。イエス様はこの言葉通り、私たちの罪を負い、神の裁きを身代わりに受け、救いを成し遂げて下さいました。それは同時に、神様の「聖さ」と「愛」が現わされた瞬間でもあったのです。私たちがイエス様を仰ぎ見るなら、すなわち、イエス様を救い主と信じて罪を告白するなら、私たちの罪はイエス様の血によって赦しきよめられ、神様との親しい愛の交わりが回復し、神様と共に生きる命の日々を歩むことができるのです。
また、イエス様を仰ぎ見るとは、イエス様(神様)の御言葉に従うことでもあります。モーセが御言葉に従い、イスラエルの民も御言葉に従ったことによって生きることができました。「御言葉を信じ、御言葉に従う」この単純で最も大切な応答を、神様は求めておられると同時に、神様はこの様な信仰者にご自身の栄光を現して下さるのです。