「メリバの水の畔で」民数記20章1~13節 金田洋介牧師
これまで民数記を見てきて分かったことは、モーセにとっての40年間は、頭を痛めることの連続であったということです。民の呟き、不平や不満に心を痛めながらも、民と神様の間に立ってとりなしてきたのです。ところが、20章も民の不満から始まります。
民は水を求めてモーセに不満をぶつけます(2-5節)。確かに、荒野を旅する民にとって水はとても貴重です。しかし、水をめぐる困難はこれが初めてではありません。憐み深い神様は、水はもちろんのこと、うずらの肉、そして天のパンであるマナを与え続けて下さったのです。それにもかかわらず、民は神様の愛、神様への信頼を見失い、不満をぶつけたのでした。
一方、モーセとアロンは民の前から退き、神様の御前にひれ伏し導きを求めたのです(6節)。問題を真っ先に神様に打ち明ける姿は、今日を生きる私たちも見習うべき姿勢です。すると神様は、「杖を取り、岩に命じて水を出させなさい」と告げられます(8節)。モーセはただこのお言葉に従えば良いはずでした。ところが、何度も呟く民へ怒りか、それとも、「岩に命じるだけで本当に水が出るのだろうか」という疑いがあったのか、モーセは神様のお言葉に従わず、杖で岩を二度叩いたのです。しかも、「神様が」水を与えて下さるのに、「われわれが」と、あたかもモーセとアロンが水を与えるかのように言ったのです。結果として、神様は水を与えて下さいましたが、神様の命令に背いたばかりか、水を与えて下さる神様に栄光を帰さなかったモーセとアロンは、この故にカナンに入ることが出来ないと告げられたのです。
私たちが覚えておくべき大切なことは、神様の御言葉を行うこと(実行すること、従うこと)が神様の栄光に繋がるということです。御言葉を行うことに対して、「これぐらい、いいだろう」と妥協し、神様の御言葉を知っていながら、聞いていながら、心にありながら、初めから知らなかった、初めから聞いてないかった、初めから心になかったかのような態度をとることは、神様を悲しませることであり、神様の素晴らしさを卑しめることになることを覚えたいのです。そしてもう一つ、神様は、イスラエルの民に求められたように、今日を生きる私たちクリスチャンを通して、神様の御言葉を愛し、行うことの素晴らしさ、恵み、神様の正しさ、聖さが証しされることを願っておられるのです。
この水場はメリバ(争うの意)と呼ばれました。確かにそこはメリバの水、争いが生じた水場でしょう。人間と人間が争い、人間が神様に反抗し争ったのです。しかし、神様はそのような場所を豊かな水辺、いのちの水辺にして下さいました。神様はご自身の栄光のために、ご自身の御言葉を実現して下さったのです。私たちもモーセやイスラエルの民のように失敗したり、間違ったり、自己中心な思いに支配されたり、誤った行動を取ってしまうことがあるでしょう。しかし、憐み深い神様は、あなたがいる所どこにでも共におられ、責任を持って助け、導いて下さるのです。何と幸いなことでしょうか。失敗しつつも神様の御業を見、体験する、その様な経験の繰り返しが、あなたの神様への信仰と信頼を確実なものとしていくのです!