2023年3月12日 主日礼拝メッセージ

「ユダとマリア-心を映す行い-」ヨハネ 12:1-8 金田洋介 牧師

舞台のベタニアは福音書ではお馴染みのマルタ、マリア、ラザロの姉弟が住んでいた村で、マタイやマルコの福音書では、シモンという人の家での出来事だと記されています。人々がイエス様の為に食事の席を設けました。マルタはシモンの家で給仕し、弟のラザロは食卓に着いていました。一方、マリアは高価で純粋なナルドの香油をイエス様の足に塗り、自分の髪の毛で拭き始めました。彼女が用いた香油の価値は、当時のおよそ一年分の労働収入に相当する額でした。マリアは高価な香油を自分の為に用いるのではなく、全てイエス様のためにささげたのです。彼女の払った犠牲の大きさが、イエス様に対する愛と感謝の大きさを現わしています。まさに、マリアの心を映したささげものでした。

ところが、このマリアの行いを批判する者がいました。十二弟子の一人、イスカリオテのユダです。彼は「高価なこの香油を売れば、貧しい人たちに施せたのに何ともったいないことをしたのか。」と、マリアの行いを強く批判しました。しかし、彼の言葉は貧しい人に対する親切心からのものではありませんでした。ヨハネはユダの本性は貪りに満ちている人であり、彼が実際に盗人であったことを記しています。ユダはイエス様一行の財布を預かっていたことをいいことに、一部を自分の懐に入れていたのです。もしかしたら、自分が盗んだことによる不足を、香油を売ったお金で補填しようと考えていたのかもしれません。ユダの心にある貪りが、彼の盗みという行動とマリアへの強い批判の言動として現れたのです。

12:7-8イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」
ここでイエス様がこう言われたのは、貧しい人たちを軽んじているのではありません。イエス様は、「いつでもできること」と「決められた時にしかできないこと(その機会を逃したら次がないということ)」を区別して言われたのです。まさに、マリアがイエス様にしたことは、十字架の苦難を目前に控えた今しかできないことであり、最も良い行いだったというです。マリアはイエス様の受難を理解していたのではなく、ただ純粋にイエス様を大切なお客様として迎えたかっただけかもしれません。理由が何であれ、マリアのイエス様に対する愛を動機とする行いが、これから十字架の死を通られるイエス様にとって最善の備えとなったのです。イエス様のためにしたことが単に喜ばれ、覚えられているだけでなく、当人の想像以上のこと、すなわち、神様の栄光の為に用いられるとは何という幸いでしょうか。

私たちにもささげるべき時があります。イエス様への愛が問われる時があります。その時、「いつか…」「そのうちに…」「私でなく他の誰かが…」と言って、躊躇してはいけません。どうか、「今」「この時」をしっかりとらえ、イエス様に喜んでおささげする者とならせていただきたいのです。私たちのために命まで献げて下さった主にお応えしましょう。

今日のお花はカーネーション、ユリ、トルコ桔梗です。