2023年6月11日 主日礼拝メッセージ

「神の情熱≠民の情熱」ホセア書7章 1~16 節 金田洋介牧師

7 章では、イスラエルの姿を4つものに例えています。 (1) パンを焼くときの燃えるかまど(4 節)…神様の御心に反することに心を燃やしている姿。ことごとく悪を行って神様に逆らい、その上神様に立ち返ろうとはしません。 (2) 片面しか焼けていないパン(8 節)…中途半端な信仰の姿。熱くもなく、冷たくもない。どっちつかずの、生ぬるい信仰の姿です。神様だけを信頼することができません。 (3) 愚かな鳩(11 節)…ここでも、大いなる神様の存在を忘れ、エジプトとアッシリアの両国の間をフラフラしています。とても不安定な姿です。(4) 欺きの弓(16 節)…神様という的を外していながら、神様に立ち返ろうとしません。
これまで神様がいかにイスラエルの民を愛しておられるのかを見て来ました。神様は民が ご自身の許に留まるよう、ご自身の愛を表されました。この 7 章においても同様に、逆らい続ける民に、神様は何度でも何度でも呼びかけています。(1) わたしがイスラエルを癒やす(1 節)、(2) わたしは彼らの上に網を張り(12 節)、(3) わたしが贖い出そう(13 節)、(4) わたしが訓戒し、彼らの腕を強くした(15 節)神様の民に対する情熱を思います。しかし、民は神様の御思いにことごとく反抗します。民の情熱は 神様に全く向いておらず、自分たちの思うままに振る舞うのです。
説教題は「神の情熱≠民の情熱」。「≠(不等号)」を「互いに向き合っていない。噛み合わない。」という意味で用いました。神様は常に民に向いておられますが、民は神様に全く向いていないのです。先週は「神様の愛を深く知ること」をテーマにしました。今週は、「果たして、自分は愛の神様に向いているか」ということを思い巡らしたいのです。神様に心を向けているか。中途半端ではないか。自分の都合の良いように神様を利用していないか。御言葉という的に向かっていっているか。仮に、的を外した時、正直に神様の前に罪を告白し、悔い改めているか。その様なことを思い巡らしたいのです。
「…あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は【主】に仕える。」これは、ヨシュアの信仰告白です。彼は民に向かって、心から信じ仕えるお方を選ぶように求め、彼自身は唯一真の神様にのみ仕えることを宣言しました。私たちも、与えられたその日、その日を、真実な信仰告白を持って歩んで行きたいのです。しっかりと神様の方を向いて生きて行きたいのす。それがどのような生き方であるかは、皆さんそれぞれが神様との関係において、見出していただければと思います。そして、それが「できるか、できないか」ということに囚われず、全てを見通しておられる神様の存在を認め、神様を畏れ、神様の御前に潔く、ありのあままの姿を見せ、神様に助けていただきながら、神様と共に生きて参りましょう。

今日のお花は、オリーブ、ユリ、トルコキキョウ、ダリアです。