「主の日に備えて-神の応答-」ヨエル書2:18~32 金田牧師
愛し憐れんで下さる神様
ヨエルは神様から心と歩みが離れている民に向かい、主の日に備えて神様の御名を呼び求め、神様に立ち返るよう民に告げました。神様の許に立ち返る時、神様は愛と憐みを持って応答して下さるのです(18節)。民同様、神様に逆らいやすい私たち。しかし、神様は御許に引き寄せて下さるお方です。躊躇せず、心を頑なにしないで、愛と憐みに満ちておられる神様を信じて心を開きましょう。
神様の祝福と守りの約束
民の不従順が招いた「神の裁き」によって地は荒れ果て、神の民イスラエルは他国からそしり(非難、悪口)の的となり、神様の御名も汚されてしまいました。しかし、民の悔い改めを聞かれた神様は、外敵から民を守り、不毛な土地を実り豊かな土地へと回復させ、「二度と国々の間でそしりとしない(19 節)」と約束して下さったばかりか、神様がいつも真ん中に おられることを知った民は、神様を讃える者となり(26節)、「恥を見ることは永遠にない」 (27節)とまで宣言して下さったのです。
成就した神様の約束
さらに、神様は祝福を加えて下さいます。それは聖霊が与えられるという約束です。特定の人だけにではなく、全ての人に聖霊が注がれるというのです(28~29節)。ヨエルの時代から約 800 年後、ペンテコステに成就しました。そして今、この時代に生きる私たちにも 聖霊は注がれます。聖霊様は私たちの歩みを助け、神様の御心を教え、導いて下さいます。
これらの素晴らしい約束を、現実を生きる私たちに当てはめると、私たちを全生涯を通して神様の御名が崇められるということです(神様の素晴らしさが証しされる。伝わる)。ところが、イスラエルの民がそうであったように、この願いとは反対のことが起こりやすい。 「こんな自分を見て、神様を信じたいなんて思ってもらえないだろうな。」と思うことはしばしばです。しかし、むしろ欠けだらけだからこそ、罪の赦しと救いが、神様の助けが必要 なのです。たとえ、証しにならない言動や行動をとってしまったとしても、ヨエル書から学んだように、私たちが神様の前に立ち返り、神様の方を向いて、神様の御言葉や御心が示す道に歩み直すなら、欠けだらけな私たちであっても、神様の御名があがめられるのです。神様は聖霊様を通して私たちの罪や欠点を取扱い、聖霊様の力によって私たちに変化を与えて下さいます。結果、そのことによって、神様の素晴らしさが証しされ(伝わり)、蔑まれたご自身の御名をも回復されていくのです。
日々御霊様と共に歩みましょう。助け主であり、真理の御霊である聖霊様に導きを仰ぎ求 めながら日々を過ごすことが、やがて必ず来る主の日への一番の備えなのです。