「あなたの神に会う備えをせよ」アモス書4:1-13 金田洋介師
4章も北イスラエルの具体的な罪がアモスを通して指摘されています。
サマリアの裕福な女性たちに対する主の言葉(1~3 節)。肥沃なバシャンの地で育ち超えた雌牛が、毎日贅沢に暮らしていたサマリアの裕福な女性たちに重ねられている強烈な皮肉の言葉です。2節で指摘されているように、彼女たちは権力を振るって弱い立場の人々を虐げ、脅し、利益を貪り、高慢に振る舞っていたのです。彼女たちは釣り上げられた魚の様に 敵の手に捕らえられ、連れて行かれるとアモスは告げます。
次に、熱心に偶像礼拝をしている者たちに対する主の言葉(4~5 節)。その熱心さは、「朝ごとに」いけにを献げ、「三日ごとに」十分の一のささげものを献げるほどのものでした。しかし、それは神様に対する礼拝、献げものではなく、イスラエルの民が自分自身のためにしているというのです。神様は民の思うままにされますが、神様の御心は、神様が用意された幸いを選びとること、神様の御心の道を歩むことであることは言うまでもありません。
最後に、神様の呼びかけに応答しない者たちに対する主の言葉(6~11 節)。「それでも、 あなたがたはわたしのもとに帰ってこなかった」という言葉が5回繰り返されています。神様はイスラエルの民たちがご自身に立ち帰るように、あらゆる種類の困難にイスラエルを遭わせられました。しかし、「それでも」彼らは神様のもとに帰らなかったというのです。
あなたの神に会う備えをせよ
12~13 節でアモスが語っている、「神に会う備えをせよ」という言葉は、二つの意味で解釈できます。一つは、神様が様々な災い(困難)を通して、神様に立ち帰る機会、悔い改めの機会を与えられたにもかかわらず、「そうしなかった」イスラエルに対する「神様の裁き」を免れることはできないとする解釈です。しかし、その怒りの裁きの背後に、神様の愛を思います。この裁きの宣告すらも、神様の許へと立ち返る、悔い改めの招きに聞こえるの です。
もう一つの解釈は、最後の審判に対する備えとして解釈することもできます。私たちは、見よ、山々を形造り、風を創造した方。その御思いが何であるかを人間に告げる方。暁と暗闇を造り、地の高き所を歩まれる方。その名は万軍の神、【主】。に会うのです。そして、この地上で生きている間に、「神様に会う備え」をしなければなりません。
神に会う備えのために祈りましょう。エペソ1章17~19 節。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。