2024年1月7日 主日礼拝メッセージ

「たとえ項垂れることがあっても」I列王記 17:17-24節   金田洋介牧師

預言者エリヤの宣言後、北イスラエルでは雨が降らない日が続き、干ばつや飢饉が広がっていました。しかし、やもめも家の粉と油は今日も無くなりません。生きておられる神様の力が働いていたからです。やもめたちは、生きて行くために必要な食事の問題が解決し、平穏な日々を過ごせると思ったでしょう。しかし、思いもよらない試練が彼らを襲います。

信じた神を見失いかけるやもめ

ある時、やもめの息子が病気かかり、死んでしまいます。やもめは、「神様は恵みの神様なのか、それとも、私の咎を容赦なく裁く恐ろしい神様なのか」と信じた神様がどういうお方なのか分からなくなってしまいました。なくならない粉と油を見るたび、彼女は神の憐れみと力を実感したに違いありません。しかし、愛する息子が死んでしまった今、神様の憐みも力も、彼女にとっては何の意味もないことのように思え、神様を信じる信仰が揺らいでいたのです。私たちも神様の恵みと憐みを実生活で体験します。「神様に守られ、祝福されてる。神様を信じて良かった。」と。しかし、その一方で、「何でこの様な目に遭わなければならないのか。神様は本当に私を守って下さるのだろうか。私は見放されたのではないだろうか。」と思うほどの、困難や試練に直面します。そのあまりの苦しさのゆえに、神様が信じられなくなり、神様がどのようなお方であるのか分からなくなるのです。これは私たちの身近に起こる現実でもあります。

信じた神を決して見失わないエリヤ

一方、エリヤは神様を見失いません。彼は神様に憐みを求めることができない彼女に代わり、必死でとりなし祈ります。「私の神、主よ」と、彼がこれまでの人生の中で体験した全能の神様(折にかなった助けと導きを与えて下さった神様)に信頼し、「死んでしまった子どもを生き返らせて下さい」と諦めずにとりなし祈りました。すると、神様はエリヤの祈りを聞かれ、やもめの子どもは生き返ったのです。神様を見失いかけていたやもめは、神様が生きておられること(現実にその力を現すことができること)を明確に知ったのです。説教題の「項垂れる」とは、(心配事・考え事・悲しみ・恥ずかしさのため)首を前にたれることです。やもめは、神様の御力を毎日目の当たりにしながらも、病で息子を失い、神様を見失いかけました。きっと彼女は項垂れてしまったことでしょう。しかし、最後には現実に現れる神様の御力、奇跡を体験することができました。新年早々、立て続けに悲しい出来事が起こり、日本中が表現しがたい不安に覆われました。希望と期待をもって向かえた新年が、初日から躓き、心が挫かれました。しかし、たとえ私たちの未来に項垂れるようなことが起こっても、私たちの現実に、神様の力が現れると信じましょう。私たち神、【主】は、私たちの祈りに応えることができるお方です。神様の御言葉の約束は真実です。互いに励まし合いながら、今年も神様を見上げて参りましょう。

今日のお花はドラセナ、デルフィニュウム、オリエンタルユリ、オンシジューム、松、千両です。