2024年2月18日 主日礼拝メッセージ

「神と人との前に誠実に生きる群れとなろう」列王記第二 2:19-25 コリント人への手紙第二 2:15-17   金田洋介牧師

神様に癒されたエリコ

エリコの町は、ヨシュアの時代に一度滅びました。その際ヨシュアは、「町の再建を企てる者は主に前に呪われ、礎を据える者は長子を、門を建てる者は末の子を失う」と宣言します(ヨシュア 6:26-27)。ところが、ヨシュアの宣言通りに長子と末子を失いながらも町を再建する者が現れ(I列王 16:34)、痛みの中に町は再建されますが、水が悪く多くの命が失われるという問題がありました。そこでエリコの人々は、預言者エリシャに助けを求め、神様はエリシャを通して水を癒し、命が失われるのろいを祝福に変え、回復されたのです(21-22)。

神様を畏れなくなったベテル

一方、ベテルの町にエリシャが訪れると、子どもたちが預者エリシャをからかったことでのろわれ、二頭の雌熊に襲われた42人の子どもが命を失うという痛ましい事件がおこります(2:23-24)。この地は、かつてヤコブの神体験がもとに「ベテル(神の家)」と呼ばれるようになった町でしたが、後に偶像礼拝が盛んに行われる町になってしまいました。偶像礼拝の影響が、真の神様を畏れず、預言者を敬わない子どもたちに成長させ、この悲しい結末へ至らせたのです。

エリコとベテルが示す教訓

かつて神様によって裁かれ、滅ぼされた町エリコ。そして、ベテルはイサクの子ヤコブに神様が祝福の約束を与えられた場所です。しかし、ここではエリコとベテルの立場が逆転しています。エリコは神様から祝福を受け、水源が癒されました。命が奪われていたのが、命が与えられたのです。逆にベテルでは、神の預言者を侮辱したことでのろいを受けています。子孫が増え広がると祝福されたのに、幼い命が大勢奪われてしまいました。神様の憐みの深さ、神様の裁きの厳粛さを思わされます。大切なのは、いつも神様を畏れ、神様の御言葉を素直に受け取り、応答すること(従うこと)だということです。しっかりと自分の心を見守り(箴言 4:23)、与えられた救いを握り(IIテモテ 3:14)、罪を示されたなら素直に悔い改める者でいましょう(ヘブル 3:15)。

神と人との前に誠実に生きよう

私たちは現代にあって、この世界にあって、神様の救いと祝福をもたらす「キリストの香り」としての使命をいただいていると聖書は教えてます(IIコリント 2:15-16)。それは同時に、祝福を受け取らない人、滅びを受け取る人がいるという現実の中に遣わされるということでもあります。呪われていたエリコが癒されて回復したように、滅びから命へと至らせる素晴らしい救い(福音)を私たちは持ち、それらを証しし宣べ伝える使命があるのです。それとともに、私たちの周囲には、本来受けるべき祝福があるのに、それらを軽んじ、受け入れないベテルのような人々が現実いることも心を留め、そこにキリストの香りを放っていく使命(神様の愛され、許されている喜びに溢れて生きる姿。どんな厳しい現実にも希望を失わないで生きる姿。)を持って遣わされていきたいのです。私たちが、「のろいに勝利し、祝福をもたらせる、キリストの香りを放つ群れ」としてこの世に遣わされていくこと、それが神様の御心です。そして、この神様の御心に応答することが、誠実に生きるということなのです。熊本真愛教会の群れが、キリストの香りを放つ群れとなれるよう祈り求め、新年度も歩ませていただきましょう。

今日のお花は、ミモザ、アカシア、オリエンタルユリ、アルストロメリア、グロリオーサです。