2024年2月25日 主日礼拝メッセージ

「神との対話-ハバククの嘆き」ハバクク書 1:1-17   金田洋介牧師

ハバククの嘆き(2〜4節)

預言者は普通、神様に代わって民に語りかけるのが普通ですが、ハバククは民に代わって神様に訴えています。彼の訴えとは、「『南ユダの国中に暴虐が満ちている』と神様に訴えてきたのに、神様は一向に聞き入れて下さらない。救って下さらない」というのです。彼はユダの現状を嘆きつつ、神様の御心がどこにあるのかと理解できないでいます。神様は不法を放置し、私の苦悩をただ上から「『ながめて』いるだけだ」というのです。彼の嘆きと疑問に対して、神様は答えられます。

神様の答え(5〜11節)

ハバククの訴えに対し神様は意外な方法を明らかにされます。それは、カルデア人を南ユダの裁きの為に用いられるというのです。しかし、彼らは野蛮で、貪欲で、横柄な民族。豹よりも速く、狼よりも強暴。騎兵は、鷲のように襲いかかってくる。また、自分の力こそが神とする民族、それがカルデア人でした。神様は南ユダの暴虐を、堕落を、不誠実を黙って眺めていたのではありません。ただし、ハバククが思いもしなかった方法、まさに神様の方法でそれをされるというのですから、驚いたに違いありません。当然、神様の答えに彼は大きく反応します。

ハバククの訴え(12〜17節)

「何故、私たちよりも悪いカルデア人を放っておかれるのですか。自分たちと比べ、彼らは諸国民を食いものにしているではありませんか。多くの犠牲の上に彼らは贅沢に過ごしています。彼らの方が我々よりももっと悪ではないですか?」理不尽な現実に疑問をぶつけるハバクク。この訴えに対する神様の答えは2章へと続きます。

ハバクク書1章から学ぶこと

ハバククの時代に限らず、現代を生きる私たちの世間、我が国、世界に目を向ける時、「本当に神様はおられるのだろうか」と疑問に思うことに直面します。しかし、望みえない状況、現実に置かれても、私たちは神様のご支配の中に(神様の力強い御手の中に守られて)いると信じることが信仰なのです。迷う時こそ、悩む時こそ、不安に襲われる時こそ、神様を信頼するのです。積極的に御言葉を読み(聴き)、祈り、神様とのコミュニケーション(交わり)を持ちましょう。神様を人格的(人間と人間が互いの人柄を理解し合えるように)に知ることができます。それらを経て、私たちは神様を信じる者、信頼する者、畏れる者となれるのです。

最後に…詩篇42篇1~5節より。

作者は、自分の心の中に「鹿が深い谷底の水を慕いあえぐ」ような、激しい「渇き」があると告白します。作者は「生ける神」が遠くに感じられ、「渇いて」いたのです (2節)。出口のない苦悩と神様が共におられる感じないことで落胆し、弱り果て、思い乱れている自分を否定しません(5節前半)。しかし、神様を知り、信じた者となった彼は、神様に望みを置くのです。「こんな時だからこそ、神を待ち望め」と。この詩の作者が詩っているように、事態が改善せず、敵の攻撃も止まず、神様を求めても身近に感じられない中であっても、「私はなおも神をほめたたえる」との告白へと至らせる。それが神様の力です。ハバククもまた、神様との対話を経て、信じ、信頼し続けてきた神様を見出します。私たちの現実に何が起ころうとも、神様は全力で信じ、信頼するに足るお方です。生ける神様を仰いで参りましょう。

今日のお花は、カラー、フリージア、ユリ、ミモザです。