2024年3月17日 主日礼拝メッセージ

「イエスの祈りのゆえに」ルカの福音書 22:31-34、54-62   金田ゆり牧師

十字架前夜、イエスはペテロに言われました。十字架の苦難に伴い、サタンが弟子たちの信仰を麦のようにふるいにかけることを神に願い、聞き届けられたというのです。まるでヨブ記の天の会議を想起させます。しかしヨブ記と全く違うところは、イエスが弟子たちの信仰がなくならないように祈られた、というところなのです。

ペテロの覚悟 33~34節

イエスは、ふるいにかけられることは、信仰を失うような試練であることをご存じでした。そこで、信仰がなくならないようにあなたのために祈ったと、立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさいと、ペテロに言われました。しかし、一番弟子と自負していた彼からすれば、傷つく言葉です。たとえ死ぬとしてもご一緒しますと勇ましく言うのです。しかし、イエスは、今日鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないと言う、と言われたのです。ペテロは、この時、いかに自分が弱く脆い人間であるか気づいていないのです。冷たく想えるイエスの言葉はいかに愛と憐みに満ちていたか、気づいていないのです。

ペテロの三度の否認 54~61節

イエスは逮捕され、大祭司の家に連れていかれました。弟子たちは抵抗するつもりでしたが、イエスがそれを止め、静かに逮捕されたため彼らは混乱しました。イエスをおいて、逃げて行ったのです。ペテロはこっそり大祭司の家に行きましたが、「あなたも仲間だ」と言われ、「そんなに人は知らない」と言いました。三度「知らない」と否定し、嘘なら呪われても良いと誓っているとき、鶏が鳴いたのでした。「知らない」というのは、これまでのイエスとの関係は一切なかったということなのです。共に分かち合った喜びも悲しみも、イエスへの信仰もなかったことに。彼は泣き崩れました。イエスは彼の全てであったはずなのに、彼の全てが崩れていく涙でした。呪われて良いとまで誓った。自分はもう救いに与かれない。なんと悲しくつらい涙でしょうか。

イエスの祈りのゆえに ヨハネの福音書 17章 15~17、20~21節

イエスはペテロを見つめて何を思われたでしょう。32節の「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。これがイエスのお心です。イエスがこう言って下さらなかったら、彼は後に立ち直ることはなかったのです。ヨハネ 17章のイエスの祈りをご覧ください。十字架前夜、イエスは祈られました。ペテロがどのような状況になるかご存じで、それでもなお、彼が守られるよう聖別してください、と。従えなかったペテロの悲しみを受けとめ、先に憐れみを祈られたのです。それだけではなく、なんと、のちにイエスを信じるようになる私たちのためにも、祈られています。「わたしのうちにいるようにしてください」と。イエスを悲しませるようなことをする、それを承知の上で、私たちが滅びないように祈られたのです。この祈りのゆえに、ペテロは絶望から立ち上がり、時代を超えて私たちが今日、ここにいることを胸に刻みたいのです。信仰がくじかれるようなことがあっても、イエスの祈りゆえにむなしく終わることはありません。あなたは必ず兄弟たちを力づけ、希望と平安の将来につながっていくことを体験するでしょう。

今日のお花は、レースフラワー、オリエンタルユリ、スターチスです。