2024年3月24日 主日礼拝メッセージ

「私を思い出してください」 ルカの福音書 23:13-25、32-43   金田ゆり牧師

序論:罪は見つからない イエスはついに逮捕され、夜通し不当な裁判を受けられました。総督ポンテオ・ピラトはイエスを取り調べましたが、罪は何一つ見つかりません。ピラトは、イエスが妬みによって陥れられようとしていることを知っていました。歴史上、最も理不尽な裁判と刑罰に、イエスは静かに向かって行かれました。

(1) 正しいことを知っていながら、できない(18~26節)

祭司長たちに先導された群衆は、祭司長たちと共にイエスを十字架につけろと叫びます。ピラトは言わば裁判長であり、イエスを釈放すると判決を下しているにも関わらず、群衆は十字架につけろの一点張りです。ピラトは善良な総督だったわけではありません。ユダヤ人を大いに苦しめた人でした。しかし、彼ですら、イエスには一点の罪も見いだせなかったのです。しかし、暴動が起こることを恐れたピラトは要求を飲みました。正しいことを知っていましたが、できませんでした。何の罪状もなく、この正しいお方は十字架に引き渡されていきました。

(2) 十字架からあふれる愛(32~41節)

この狂気の渦の中、二人の犯罪人が、イエスを見ていました。この二人は、イエスと共に処刑されることになっています。最期の意識をイエスだけに向けたのです。ついに十字架につけられたイエスの最期の願いは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかがわかっていないのです」。ありえない理不尽と苦しみの中、イエスからは愛と赦ししか出てきませんでした。一人の犯罪人は、「キリストのくせに自分とおれたちを救えないのか」と苦し紛れにイエスをののしりました。しかし、もう一人の犯罪人は自分の罪の刑罰を理解していました。イエスがどうして理不尽な裁判と罰に向かって行くのか、なぜ自分と同じ刑罰を受けるのか。彼は生涯の最期、愛と赦ししか出てこない、神のお姿をイエスに見ました。多くの人々が、イエスの惨めな姿に絶望していたのに、イエスのこの姿に神を見たのでした。地上の誰にも勝る信仰でした。こんな正しい愛のお方が、自分と同じ刑を受けているとは何ということなのだろう!「この方は、悪いことを何もしていない」と最後の力を振り絞ってイエスを弁護したのです。

(3) 私を思い出してください(42~43節)

この犯罪人は言いました。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」。赦してくださいも助けてくださいも言えません。そんな資格がないからです。自分は当然の罰を受けており、赦してはもらえない罪人なのだから。せめて、私を思い出して下さるでしょうか…。私たちも、このイエスの姿を見て、自分の行い言動を振り返った時、十字架のこのお方に何と声を掛けますか。「私を思い出してください」としか言えないのではないでしょうか。罪を積極的に犯さなくても、正しいことを知っていながらしない、罪深い私たちなのですから。しかし、イエスは言われます「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」。地上では死罪になった犯罪人は、イエスと共に御国に入っていきました。自分の本当の姿が分かって、イエスの憐れみだけにすがるなら、イエスは即座に、あなたに救いを宣言されるのです。

 

今日のお花は、銀葉さざなみ、オリエンタルユリ、トルコキキョウ、スターチスです。