1章で預言者ゼパニヤは、「主の日」の裁きを予言しています。その裁きの対象とは、バアル礼拝をする者、偶像に仕える祭司(4節)天の万象を拝む者、真の神を礼拝しながらミルコム(アモン人の神)を礼拝する者(5節)、主にそむいて従わない者、主を求めず、主を尋ねないもの(6節)たちです。神の民とされていながら神にそむき、他の神々を拝する二心を、神は見抜いておられるのです。
2章でゼパニヤは「共に集い、集まれ」と呼びかけ、「主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。(3節)」と、主の怒りの日が訪れる前に取るべき対応を語ります。さらに、ゼパニヤは イスラエルの民だけでなく周辺諸国についても警告しています(4~15節)。神を畏れず、偶像を拝み、高慢で、おごり高ぶる、ペリシテ人、モアブやアンモン、エチオピア人(クシュ人)、アッシリアといった諸国も例外ではなく、神の裁きの対象なのです。しかし神は、「もろもろの国の民は、おのおの自分の所から出て主を拝む。(11節 )」とありますように、やがて諸国民も真の神を礼拝する日をもたらされるのです。
3章に入り、エルサレムに対する裁きが描かれています(1から5節)。民が預言者の声に「耳を傾けず」、主の懲らしめを「受け入れず」、主に「寄り頼まず」、「神に近寄らない」からでした。神の民イスラエルも、周辺諸国もみな、神の激しい怒りを受けざるを得ないほど罪深く、堕落していたことがわかります。実は私たちも同じ過ちを犯しているのです。しかし義なる神は、罪深い民の国々の、あなたの「ただ中に(新改訳2017)」いて、罪を取り除かれるのです(11節)。 否、新約の時代に生きる私たちは、罪はイエスの十字架によって贖われているのです。
あなたの内にいます神は聖く、愛と力とに満ちておられるお方です。この一年、神の御声に聞き従う年となりますよう、祈り励んで参りましょう。