2018年4月29日 主日礼拝メッセージ

「熱くもなく、冷たくもない信仰」 列王記上18章20節~40節 金田洋介牧師

イスラエルに雨が降らなくなって三年。いよいよ、エリヤとバアルの預言者たちとの直接対決の時がやってきました。エリヤ一人に対して、王妃イゼベルお抱えのバアルの預言者は450人。カルメル山には、彼らの他にイスラエルの民も集められました。対決は、祭壇に火を下さる神を神とすることになり、まずはバアルの預言者たちから始めました。ところが、長時間叫び求めても自らの身体を傷付け血を流しても何も起こりません。一方、エリヤは祭壇に大量の水をかけました。常識的に考えて火が点く状態ではありません。しかしエリヤが祈ると、神は直ちに天から火を下され、祭壇を焼き尽くされたのです。神の大いなる御業を目の当たりにした民は、「主こそ神である」と告白しました。

この出来事から学ぶべき一つ目のことは、神はどちらつかずの信仰を喜ばれないということです。イスラエルの民の信仰は熱くもなく、冷たくもない、まさに黙示録3章でラオデキヤ教会に指摘されているような生ぬるく、中途半端な信仰でした。「ある時は神中心、ある時は自己中心」という曖昧な生き方は、イスラエルの民のように罪に妥協する歩みへと陥らせます。

エリヤはイスラエルの民の曖昧な歩みの原因を示しました。彼は壊れた祭壇を築き直したのです。この行動は礼拝を疎かにしていた民の心を打ったのではないでしょうか。このことから学ぶべき二つ目のことは、神との関係をしっかりと築くということです。神としっかり繋がり、神と共に歩むのです。イエスも「わたしにつながっていなさい。」と言われました。神を心から礼拝することはもちろん、御言葉と祈りの生活、神を生活の中心にすることが大切です。

最後に三つ目は、民の為に執り成すエリヤの姿です。エリヤは「主こそ真の神であることを現してください」と祈りました。私たちも「主が神であることを現してくださるよう」祈り求めたいのです。神を知らず、罪を知らず、救いを知らずに生きている人々が私たちの周囲にいます。エリヤのように執り成し祈る者とならせていただきましょう。

曖昧な民の姿は他人事ではありません。常に自らの信仰を顧みましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、すかしゆり、ひまわり、トルコキキョウ、びわです。

熊本真愛教会では、礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、鮭のタルタルソースフライ、野菜炒め、お麩の吸い物、ごはんです。鮭のタルタルソースフライは、お当番さんの仕事上での発注ミスにより、教会のランチに活用されました。ラッキー!
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。長らくホームページ管理人の勘違いにより金額を間違えておりました。お詫びして今回より訂正させていただきます<m(_ _)m>