2018年6月3日主日礼拝メッセージ

「主の御前に悔い改めたヨナ」 ヨナ書1章17節~2章10節  金田洋介牧師

預言者ヨナは神からニネベ宣教を命じられますが、神の命令に逆らい、タルシシ行きの船に乗って全く正反対の方向へと逃げてしまいました。しかし、神は大風を起こされ、彼が乗った船は難破しそうになります。この事態を招いたヨナは、自らを海に投げ込ませました。すると大風は止み、海は静かになりました。

海の底に沈んでいくヨナ。その時、「神は大いなる魚を備えて(1章17節)」、ヨナをのませられ、彼は間一髪で神の助けを得たのです。何とか溺れ死ぬことは免れたもののその身は大魚の腹の中、ピンチであることには変わりはありません。その時ヨナは神に祈りました。船が難破しそうになっても、全く祈ろうとしなかったヨナも、神の御前にひれ伏すしかありませんでした。2節以降、ヨナの祈りが詩のように著されていますが、彼が絶望の底に追いやられ、苦しんでいる事が分かります。襲い掛かる大波、光の届かない海の底、そして命は取り留めたものの、魚の腹の中にいる恐怖と孤独。これはヨナ自信が招いたことですが、彼は「再び聖なる宮に上って、主なる神を礼拝したい(4節)」と、神に救いを求めます。心身共に疲れ果てたヨナ。ところがヨナの祈りは一転して、神への賛美へと変わります。それは、彼が主の御前に悔い改めた時、「主をおぼえた(思い出した:新改訳)」からでした。神の何を思い出したのか。それは、神がどのようなお方であり、また、これまで語られてきた、神の御言葉を思い出したのです。ニネベはイスラエルにとっての敵であり、神の御前にも罪深い町でした。神に裁かれて滅びてほしい、それがヨナの本心でした。しかしヨナは、神が悪人の死を喜ばず、むしろ悪人がその道を離れて生きることを喜ぶ(エゼキエル23章11節)、愛と憐みに満ちたお方であることを悟ったのでした。ヨナが神に与えられた使命を思い起こして立ち上がった時、神は魚に命じて彼を陸へと吐き出させたのです(10節)。

私たちもヨナのように、自分が神の御前に不従順であると気付いていながら、「あの人こそ悔い改めるべきだ」と裁き、また、そのような罪深い自分に何度も失望し、遂には悔い改めることをさえ躊躇してしまうことがあります。その時は心を鎮め、主なる神を覚える(思い出す)のです。神の御言葉の光に自らを照らし、悔い改めるべきは神の御前に告白し、神の御心にかなう日々を歩ませていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、アナベル(西洋あじさい)、ゆり、モナルダ、ソリダコです!

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。今週はカレーライス、高菜漬、お土産のうなぎパイでした。料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。