2018年6月17日 主日礼拝メッセージ

「キリストに仕える者として 」コロサイ人への手紙 3章18節~25節  金田洋介牧師

コロサイ3章には、エペソ人への手紙5章や、ペテロ第一の手紙2、3章でも語られているように、妻、父、子、僕(誰かのもとで働く人)についての勧めの言葉が綴られています。本日はこれらの勧めの言葉とともに、中心聖句の「あなたがたは、キリストに支えているのである」(24節)という言葉に注目したいと思います。

Ⅰ.主に仕えるとは、主と共に生き、主の御言葉に従うこと

主に仕える者とは、主イエスと共に生きる者、主イエスの御言葉に生きる者のことです。それまでは、自分の価値観によるところの人生を歩み、神を無視して自己中心に生きてきました。しかし、私たちはイエス・キリストを自分の救い主と信じる信仰によって主に仕える者、イエスの御言葉、聖書の言葉を土台として、神の御心に従って生きる者にされたのです。パウロは、「妻たる者よ、夫たる者よ、子たる者よ、父たる者よ、僕たる者よ」と呼びかけ、イエスに仕える者に相応しい生き方を教えています。神は私たちが必ず直面する夫婦間、親子間に代表される人間関係に平和をもたらせたいと願っておられるのです。まず、御言葉に対して、普段自分がどのように生き、どのような態度をとってきたかを顧みるところから始めましょう。

Ⅱ.主に仕える者が受ける報い

パウロは主に仕える者が受ける報いを語ります。主に仕える者(イエスと共に生き、イエスの御言葉に生きる者)は「御国をつぐ」(24節)というのです。御国をつぐとは、神の国で永遠に生きる命のことです。さらに、この報いの素晴らしいところは、神の御国が私たちの現実の生活にも現れるということです。御言葉にありますように、あなたの夫婦の間、親子の間、家庭や職場の中に、神の支配による平和と喜びに満ちていくのです。主に仕えることによってもたらされる報いは、生きている間も死んだ後も与ることができる神の祝福です。その一方で、パウロは不正を行う者はその不正に対して報いを受ける(25節)と注意します。不正とは不義とも訳される言葉で、神の前、人の前の正しくない行動や思い、すなわち罪を指します。聖書は、神は善悪ともに裁かれると語り、そこに差別扱いはない(25節)と語っています。

主に仕える者としての日々を歩み、現実と将来にももたらされる報いを頂きましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、カサブランカ、リアトリス、ミニバラ、カラーです!