2022年7月24日
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
ペテロの手紙 第一 4章7~16節
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。
それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。
語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。
むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。
もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい。
しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
先週来られなかった方々のために少し前半部分を見ていきたいと思います。(先週の礼拝メッセージはこちら)「万物の終わりが近づきました」と7節に記されています。先週は、全世界に福音が宣べ伝えられて終わりが来ると、イエス様が言われたことをお話しました。そしてアムステルダム2000という伝道者会議では、もうほとんど福音が宣べ伝えられたことが報告されて、いつイエス様のご再臨があっても不思議ではない時代に入った、ということをお話しました。
そして、先週も目を引く記事が載っていました。プーチン大統領がウクライナ侵攻以降、初めて国を出て、ある国の指導者と話し合ったのです。その国は、なんとイランでした。そしてその話し合いにトルコも加わったのです。皆さん、どうでしょうか?プーチン大統領、そしてイランとトルコの話し合い、何かピンときませんか。そうです。エゼキエル戦争です。エゼキエル38章、39章に書かれている、イスラエルを攻める、同盟国となる国々です。
私も、本当に世の終わりが近づいているということを思いました。エゼキエル戦争が世の終わりではないですけれども、2800年も前に預言された聖書の舞台が整えられているのです。本当に聖書の御言葉は真実だということを、私達は覚えていきたいと思います。それと同時に、本当に神様がもうずっと昔から決められた通り、この世界が動かされていることを恐れて、世の終わりが必ず来るということを覚えなければいけません。
私が一般の人たちに教えてあげようと思って、エゼキエル戦争のことを熱心に語ったら、ちょっと笑われたんですね。「あなた、2800年も前に書かれたことを真剣に信じてるのか」と。しかし、2800年経ってもイランとトルコの国が存続していること自体、奇跡です。また、先週、プーチン大統領がイランを訪れて、トルコも加わって話し合ったことから、エゼキエル戦争の舞台が整いつつあることがわかります。本当に聖書の御言葉は真実で、世の終わりが神様が決められた通りに近づいていることをさらに思わされました。
そして第二ペテロ3章に記されているように、この天と地は世の終わりに火で焼かれるためにとっておいてあります。また、みんなが遅いと思っているけれども、一人の魂も滅びることなく悔い改めに進むため、神様が忍耐して滅びを遅らせておられます。そして終わりは盗人のように突然来ます。私達はこれらのことを覚えなければいけません。
そう言うと、ちょっとある方が心配になって、「私は用意ができていません!」と言われることがあります。私のメッセージは結構、長くクリスチャン生活をしておられる方向けのところもあるので、まだ洗礼を受けたばかりでよくわからない方は、もう本当に赤ちゃんですから、いつも泣いていて、ミルクをあげて、オシメを変えてあげないといけない状態です。ですから、ただ大切なことは、イエス様に寄りすがることです。「みんなと同じようにできない」と嘆くのではなく、ただイエス様にすがって祈ることが大切です。人と比べないで、ともかくイエス様を見上げて、「イエス様、助けてください。不信仰な私を助けてください」という祈りでも良いので、ただすがって祈ってください。そのうちに段々段々、内なる聖霊様が働いて、徐々にイエス様のようにつくりかえてくださるので、心配はいりません。ともかく万物の終わりが近づいたので、この世を愛するのではなく、イエス様を愛して、イエス様に目を留めて歩むことが大切になります。
そして先週お話したのは、終末を生きる者として、祈りのために心を整え身を慎みなさい、ということです。祈ることが大切です。祈りが唯一神様とのコミュニケーションです。以前お話したように、信仰生活を支えるものは、祈りと御言葉を定期的に読むことです。祈りがなければ神様とのコミュニケーションが途絶えてしまいますから、ともかく絶えず祈ることです。もう、「助けてください」という祈りでもいいので、絶えず祈るということです。そして、ダニエルも日に3度、どのような状況の中でもひざまずいて神様に感謝を捧げて祈っていたとあります。本当にここまでできるようになりたいと思います。
そして、祈りを助けてくださるのも聖霊様です。ですから、「ああ、祈れない祈れない」と言うのではなく、ともかく聖霊様を求めてください。神様は、悔い改めてバプテスマを受け、祈り求めるなら、必ず聖霊を与えてくださると約束されています。まだ聖霊様が与えられていないという方は、ともかく求めて祈って下さい。聖霊様が私達が祈れるように助けてくださいます。ローマの8章26節をお読みします。
同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
ローマ人への手紙 8章26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このように、聖霊様は弱い私達を助けてくださるお方です。何をどう祈ったら良いかわからない時でも、聖霊様はとりなしてくださいます。私達の祈りを助けてくださるのは聖霊様なので、どうか皆さんも聖霊様も求めて祈ってください。そして、聖霊様の助けがあると、祈れないと思っていたのが、スイスイと祈れるようになることを経験します。「ああ、私は祈れないからだめだ!」と言うのではなく、聖霊様の助けによって祈れる者となるということも覚えていただきたいと思います。
そして、同時に、ここに書いてあるように、心を整えることです。この世の色々な心配事によって心が押しつぶされることがないように、ということです。また、身を謹んでいくことです。酔っ払ったり、この世の楽しみに埋没しないように、ともかく祈りのために時間を取ることが大切です。万物の終わりが近づいたと言われるこのときに、私達はともかく、祈りのために心を整え身を慎むことが1番目です。
そして2番目は8節に書かれています。「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」と。互いに愛し合うということ、これはイエス様が私達に与えられた新しい命令です。イエス様は、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました。
イエス様の愛は、裏切るとわかっていた人のためにとりなした愛です。そして十字架にかかる前、みんな見捨てて逃げてしまったけれども、愛をもって受け入れ、赦してくださいました。ともかく、赦すことが大きなウェイトを占めているということを先週はお話しました。そして、聖書にも「愛は寛容」とあります。愛するとはもちろん、親切にするとか、色々なことがありますが、ともかく人が自分に理不尽なことをしたり、悪口を言ったりしても、ともかく赦すことが愛することです。そして、愛は多くの罪をおおう、とあります。相手が私達に何か理不尽なことをしたり、悪口を言ったことに対して、私達が怒りを燃やしたら、それは罪、ですよね。そして仕返しをしたら、また罪です。すると相手がまた仕返しをして、怒ったらまたそれも罪です。でも相手が理不尽なことや、悪口とか色々なことを私達にしたとしても、そこでストップする、つまり赦すことで、そこでその罪は終わるのです。それによって将来的な罪もおおわれてしまいます。ですから赦すということは、人のためだけでなく、実は自分が一番大きな恩恵を受けている、と言っても差し支えないと思います。
そして、イエス様も「あなたがたが人を赦すなら、天の神様はあなたがたを赦してくださる。でも赦さないなら神様も赦されない」と言われました。人を赦すことが、神様から赦されることの前提です。神様が赦されなければ私達は地獄に行ってしまいますから、私達は人を赦し、神様から私達の罪も赦されて、受け入れられ、天国に入る者となりたいと思います。互いに熱心に愛し合うことはすごく大切なことです。
イエス様は、「私はあなたがたに報いを携えてくる」と言われました。その報いはどのような報いかと言うと、何百回何千回祈ったとか、イエス様をいつも信じた、などという基準によって与えられるのではありません。イエス様は、「私の報いを携えてくる。それぞれの行いに応じて報いるために」と言われました。結局、神様の御心を行う実となって現れてくる「赦す」こと、また、後ほどお話する「仕え合う」こと、そういう行いによって主は裁かれることも覚えていただきたいと思います。観念的に「ああ!私はイエス様に対する素晴らしい信仰がある」と自己満足に陥るのではなく、その信仰があれば行いとして人を赦す、また、困っている人を助ける、そして人に仕える、というような行いが大切です。もちろん、行いによってではなく、イエス様の十字架の尊い血潮によって救われますけれども、行いによって報われることを覚えてください。
先週は、万物の終わりが近づいたので祈りが大切だということと、2番目に互いに熱心に愛し合うことが大切だということをお話しました。そして3番目に大切なことが第一ペテロ4章9節から11節までに記されていますので、そこをもう一度お読みします。
不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。
ペテロの手紙 第一 4章9~11節
それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。
語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
不平を言わずに互いにもてなし合いなさい、仕え合いなさいということを、ここですすめられています。「それぞれが賜物を受けている」とあります。私達の賜物はみな違うわけですね。人と比較して「自分の賜物は素晴らしい」なんて優位に思ってはいけないし「自分の賜物は、人より劣るなあ・・・」なんてことを思う必要は全然ありません。神様が与えられた自分の賜物を輝かせ、仕えて、最終的には神様に栄光を帰すことが大切なのです。「それぞれが賜物を受けているのですから・・・語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい」と記されています。そして、「すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン」とありますから、神様が私達に賜物を与えられていて、私達がそれぞれその賜物を用いて仕え合うように導かれているのです。そこについてもう少し詳しく書かれている、ローマ人への手紙12章4節から10節をお読みします。
一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
ローマ人への手紙 12章4~10節
大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、
勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。
兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私達は、イエス様にあって一つのからだです。一人ひとりは器官で、みな働きが違うわけです。異なる賜物を持っているのです。ですから、「預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい」とあります。そして、10節にあるように、「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合」うことが大切です。「ああ、自分は優れている!」なんて高ぶったら、高ぶる者を神様は退けて、へりくだる者に恵みを授けられるという真実な御言葉がありますから、互いに相手を優れたものとして尊敬しあうことが大切です。賜物に優劣はないのです。どんな賜物であっても、本当に教会の中で全て必要な賜物です。私達はその事を覚えて、互いに尊敬し合い、賜物を最大限に用いて仕え合うことが大切です。
皆さんにもお話しましたけれども、この酷暑の中、本当にもう体が動かなくなってご飯を作れないときに、クリスチャンではないですけれども、近くに住む友人の看護師さんが夕飯のときいつも月曜日から金曜日まで食事をこの酷暑の中でも届けてくれました。私は、それによって生き延びることができたと申し上げました。そして彼女の食事はとっても美味しいんですね。私はとてもじゃないけど真似ができないほどの腕で、私は今病院で入院しているんですけれども、彼女の食事が恋しくなって、「ああ、あの食事は良かったな」と思うぐらいなのです。私は決して、彼女のような料理を作ることはできないし、酷暑の中、忠実に人に届けることもできないです。(まだ伝道していて、イエス様をまだ信じていないSさんですけれども、救いのためにお祈りして欲しいと思います。)彼女に与えられている料理の賜物、そして奉仕する思いというのは、私はとてもじゃないけど決して真似できない、そういう賜物です。私は彼女をとっても尊敬しています。
またM姉妹はすごくコンピュータに強くて、こういうふうなLINEとか、SNSとか、ホームページとかやってくれています。これも私はとてもじゃないけどできません。M姉妹が忠実にこの働きをしてくださるので、メッセージが多くの人に届けられています。私のメッセージを忠実にアップしてくれて、そのアップされたメッセージで、「すごい励ましを受けました!」と言ってくださる方もいます。M姉妹がいなかったら、そのメッセージは届けられないですし、本当に感謝です。また、エクセルとか色々な面においても助けてくださいます。この働きも、教会にとって今の時代、なくてはならない働きなので、私はM姉妹に感謝していますし、尊敬しています。「ああ、私にはとてもできない」と。いつも思っています。
ですから、ここで申し上げたかったのは、人によって賜物が違うということなのです。私は語る賜物で(語る賜物もあります)、そういう賜物を持つ人もあれば、もう本当に人が決して作れない料理を毎日作って奉仕してくれる賜物を持つ人もあれば、コンピュータに強くて、ツイッターやホームページで発信してくれる賜物もあります。これは、甲乙つけがたいですよね。この賜物が優れている、というわけではなくて、どの賜物も私達のために必要なものだ、ということなのです。ですから、私達は、本当に互いに尊敬し合うことが必要です。決して、自分にはできない賜物を、人に神様は与えられている、ということなのです。ですから、「私は・・・まあまあ」などと思う必要はなくて、実は素晴らしい、仕えるための賜物を神様は与えられているので、その賜物を磨いて、実際に使っていくことが大切です。そして、自分に与えられた賜物を、「自分の賜物は、人よりも優れている!」と高ぶったり、「劣っている・・・」と落ち込んだりするのではなく、与えられた賜物を神様に感謝して、神様に栄光を帰すことが大切です。ですから、賜物を用いて互いに仕え合うこと、そして、互いに尊敬し合い、神様に栄光を帰していくことが大切です。互いに仕え合うのです。
そして最後4番目は、終わりに生きる者として、キリストの苦難に備えるということです。第一ペテロ4章12節から14節までお読みします。
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。
ペテロの手紙 第一 4章12~14節
むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。
もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
12節にあるように、「燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません」とあります。そして、イエス様も、「終わりの時代にクリスチャンは迫害される、苦難を受ける」と言われました。マタイ24章9節と10節をお読みします。
そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
マタイの福音書 24章9~10節
そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
これは、終わりの時代に起こることについてお弟子さんたちが聞いたとき、イエス様が言われたことです。クリスチャンにとって、非常に大きな苦難が終わりのときに来ると、イエス様もはっきりと言われているので、私達は、そういう時代が来ることを心に留めておく必要があります。でも、先ほどの第一ペテロ4章に戻ると、12節には、「むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい」と言われているわけです。なぜなら、「キリストの栄光が現れるとき」つまりイエス様が現れるときにも、「歓喜にあふれて喜ぶため」です。また、イエス様のために苦しみを受ければ受けるほど、私達はイエス様から、「よくやった」とねぎらいの言葉も受け、苦しみがイエス様の前に大きな報いとなり残る、ということなのです。
また、14節に「もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」とあります。私が今までの人生を振り返って、聖霊様に一番満たされていたときは、一言祈れば聖霊様が慰めて、本当に主の栄光に包まれていたときでした。それはいつだったのかと思うと、それは一番苦しいときでした。高校生のときに信仰を持って、父親から怒られて、口もきいてもらえず、家で孤立していたとき、誰にも話せないで、自分の部屋にこもりイエス様に祈ったときに、いつも聖霊様がすぐに来て、すごい聖霊の臨在をいつも感じることができたのです。ですから、イエス様のために罵られるときは、本当に聖霊様の一番深い臨在があることを覚えていてください。父の反対がおさまって、信仰が赦されたときは、かえって私自身がなまぬるくなって、「反対されていたときが懐かしい」なんて思うときもありましたけれども、イエス様のために苦しみを受けるときは聖霊様が一番近くにいて、臨在を現し、慰めてくださるお方なのです。
また。第一コリント10章13節には素晴らしい約束もあります。
あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
コリント人への手紙 第一 10章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
感謝な御言葉です。私達のあった試練、またこれから出会う試練は、みな人が経験したことだ、ということです。そして、神様は真実な方ですから、私達を耐えられない試練にあわせることはなく、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださるという、神様の大きな約束、恵みを感謝したいと思います。確かに私達は苦難にあうけれども、耐えられない試練にあうことはないと、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださるという約束があります。
また、皆さんに覚えていただきたいのは、確かに終末の時代、殉教する方々も現れるということです。私は若いときに、殉教者は特別に扱われているので、「私も殉教者として死ねたらいいな」なんて憧れたときがあります。でも殉教者は、特別に選ばれた人だけです。それはヨハネの黙示録に記されています。6章8節から11節をお読みします。
私は見た。すると見よ、青ざめた馬がいた。これに乗っている者の名は「死」で、よみがそれに従っていた。彼らに、地上の四分の一を支配して、剣と飢饉と死病と地の獣によって殺す権威が与えられた。
ヨハネの黙示録 6章9~11節
子羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちのたましいが、祭壇の下にいるのを見た。
彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
すると、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このように、剣とか、死病や地の獣が出てきます。今、サル痘が出てきていて、ビル・ゲイツ氏やファウチ氏は来年末までに数億人死ぬ、と言っています。地の獣とは、コロナにしてもコウモリ由来ですし、サル痘も動物由来です。また、剣によって地上の四分の一の人口が死に絶えた後、9節に殉教者たちについて出てきます。天の御国において、「神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちのたましいが、祭壇の下にいるのを見た」とあります。殉教者たちは、天の御国の祭壇の特別な下に、その魂が集められているわけです。そして彼らが、「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか」と主に聞いたら、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられました。そして、主が言われたのは、「彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」ということでした。
ですから、実は殉教者はもう神様の恵みによって決められていて、その数も決められています。そして終わりの時代、これから主のために立てた証しのために殉教する者もいるけれども、彼らは特別な地位を天国で占めていることがわかります。ですから実は昔、修道士たちは「殉教者になりたい殉教者になりたい」と言っていた人たちも多かったのです。そのことがキリスト教の歴史を見るとわかりますけれども、例えイエス様のために殺されるようなことがあっても、それは本当に素晴らしい、選ばれた栄誉の人です。その人達が、天国では特別に扱われるということを、覚えていただきたいと思います。そしてもし、殉教者として選ばれるようなことがあれば、それはとても喜ばしい、名誉なことだということも覚えていただきたいと思います。
ただ、私達に要求されるのは、死に至るまで忠実である、ということです。ヨハネの黙示録2章10節をお読みします。
あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。
ヨハネの黙示録 2章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ここでも、「受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない」とイエス様は言われました。そして、苦難にあっても、「死に至るまで忠実でありなさい」と言われました。そうしたら、特別な殉教者としての恵みをいただける、いのちの冠もいただけるということを覚えていきたいと思います。確かに、これから苦しい時代、クリスチャンたちが苦しめられる時代になるとしても、神様は耐える力も与えてくださるのです。聖霊が本当にそば近くにいて助けてくださいます。そして、もし殺されるようなことがあっても、特別な殉教者の恵みを天で受けることを覚えていただきたいと思います。
これを聞いてちょっと怖がる方もいるかもしれないですけれども、耐えられないような試練にはあわせられないので、「怖い怖い」と思っている人には多分、殉教者の恵みは与えられないと思います。本当に主のために喜んで、という人にこの殉教者の恵みが与えられるんじゃないかな、と思います。
先週から2週にわたって、第一ペテロ4章から学んできました。本当に万物の終わりが近づいているということ、そして、聖書の預言通りに世界が動いていることを覚えていきたいと思います。人々は聖書の御言葉を、2800年前よりもっともっと前に書かれた古い書物だと馬鹿にしますけれども、エゼキエル戦争など、全て本当に成就しつつある舞台が設定されています。確かにこの世は火で焼かれると書かれていますから、そういう時代が来ることを覚えて、この時代にあまり執着心を持たないでおきたいと思います。そして、万物の終わりを生きるものとして備えるためには、祈ることが大切です。そのために、心を整え身を慎むことが大切です。また2番目に、互いに熱心に愛し合う、特に赦し合うことが大切です。また3番目に、それぞれ違った賜物があるので、その賜物を用いて、熱心に互いに仕え合うことが大切です。そして、比較しない、ということです。優越感を持ってもいけないし、劣等感を持ってもいけません。神様が与えられた賜物を感謝して、それを持って神様に栄光を帰すことが大切です。また最後に、万物の終わりに際して、苦難に備えることも大切です。今日は3番目と4番目を中心にお語りしました。どうか、終わりに生きるものとして、これらの備えをなしていただきたいと思います。