1章-9 あわれみの見本としての生き方

しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(16節)

今日の箇所に「見本」という言葉があります。パウロが、「神のあわれみの見本」として、自らを差し出しているということを何回かお話してきました。

見本と手本

「見本」という言葉を辞書で引くと、意味の中に「お手本」という意味もあるので、見本と聞いて、手本の意味で理解する方があるかもしれません。「手本」と理解すれば、ここでパウロは完璧な模範。目指すべきものとして自分を提示していることになり、私たち一人ひとりも、パウロにならって「お手本」のような信仰生活を目指すべき、という理解になるでしょう。そして、そうでない自分を見て「だめだ」と落ち込むこともあるかもしれません。

けれども、「見本」は「手本」とは違うニュアンスも含んでいます。それは「完璧ではないが、その全てが参考になるもの」という意味です。日本語の慣用句に「人のお手本にはなれないが、見本ぐらいにはなれる」というものがあるそうです。これは手本と見本の違いをうまく表現できているのではないかと思います。こちらで理解するなら、完成形である必要はありません。何かに向かう姿勢が問題になるといったらよいでしょうか。

ここでパウロが言おうとしているのは「手本」なのか「見本」なのか。答えは「見本」であります。パウロは自分自身を何か完成形であるかのように思ったことは一度もありませんでした。けれども、パウロは自分のようになることをも、あちこちで願っています。パウロのようになるというのは、パウロのように聖書知識に通じたり、熱心な宣教者になったりすることでしょうか。いいえ。パウロのように、自分が罪人であるということを深め続けていく、神のあわれみがどれほど深いのかを味わい続けていく、このことにおいて、自分のようになって欲しい、ということなのです。

罪人であることを深める、とは

罪人であることを深めるというのは、罪悪感にさいなまれるという意味ではまったくありません。罪悪感にさいなまれるというのは、結局、神が赦すとおっしゃっているものを、自分が赦さないでいる、ということですから、実際のところ、神よりも自分の判断を優先させている状態です。それは神の憐みの見本という姿とは真逆のあり方。罪人であるということを深めるというのは、神の憐みの光の中で、安全に自分の姿をありありと眺めるということです。

私たちは誰も、自分の罪の大きさや、罪深さを、正確に知ってはいないのです。それが神様の前に問題であるということはわかっていますが、実際どれほどひどいのか、直視できていないのです。

例えて言えば、停電した深夜に、外から帰ってきて部屋を歩くと、やたら躓いたり、ものにぶつかったりします。それで、どうやら部屋がちらかっていることに気づきます。そして、携帯電話などで足元を照らすと、やはり散らかっているとわかる。ところがその程度の光では部屋の散らかり具合の全貌はわかりません。朝日が昇って、部屋全体に光が差し込むとき、散らかっているどころの騒ぎではない、ということに気づく。私たちが自分の罪の状態を知るというのも、これに似ています。みことばの光は、少しずつ私たちの心を照らし、少しずつ朝に向かわせます。いくらか罪がわかったとき、私たちはイエス様を信じ、救いをいただきます。けれどもイエス様は私たちが理解できる範囲の罪だけを赦したのではなく、すべてを知った上で、赦してくださった。けれども、私たちはその全体を徐々に知らされていくのです。

すなわち、罪人であることを深めるとは、主の赦しの豊かさを知り続けるということです。パウロは、そのことを生涯やめることがなかった。「私はその罪人のかしらです」(15節)とは、「私は最悪な罪人です」という意味。最悪な者に、最大の憐みが注がれる。これは、神様の憐みはみな同じなのですが、それを自分のものとして実感できるかどうかは、人が自分をどこまで直視するかによって変わってきます。そしてパウロの主張点は、誰一人、イエス様の救いにあずかれないほど罪深い人はいない、ということなのです。こんな私でも救われた。だからあなたも、というのがパウロの思考法だったのです。これが「あわれみの見本」としての生き方です。