1章-6 恵みを恵みとして持ち続ける

私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。(12~13節)

今回の箇所(1章12~13節)から、パウロは自分のことを話し始めます。ここから「」という代名詞が、続出することに気づきます。11節で、福音の管理者は、「(パウロ)」だという主張をパウロはしましたので、その流れから自分の話を始めるというのは自然なことです。しかし、パウロがしたいのは自慢話や、自分の権威の正統性の主張ということではありません。「律法の教師でありたい」と願う「ある人々」が悔い改めに導かれるように、ということが意図されてのこと、16節にある「あわれみの見本」なのです。

恵みを持ち続けるパウロ

まずパウロが言うことは「感謝」です。「感謝をささげています」というギリシャ語は、文字通りには「恵みを持ち続けています」と言葉を並べます。これは別に特別な言い回しではなくて、ギリシャ語で「ありがとう」と言おうとしたら、必ずこうなるのです。けれども、パウロはここで、この言い回しを使って、言葉遊びをしています。14節で「この恵み」と言われています。日本語で読むと、ここで急に「恵み」という言葉が出てきて、「この恵み」とは何ぞや?という感じになりますが、ギリシャ語で読めば、「感謝をささげています」は「恵みを持ち続けています」ですから、ギリシャ語のネイティブが聞けば、「うまいこと言うな」という感じになる。つまり、パウロがここでテモテを介してエペソ教会に伝えたいのは「恵みを持ち続けていますか」ということです。

恵みと報い

恵みというのは、一方的に、神様からいただくプレゼントであって、報いではありません。恵みを恵みとして持ち続けるというのが、健全な信仰生活にとって重要なことです。けれども、信仰生活が長くなって、人を教えるような立場になると、いつしか恵みが報いに変質してしまうことになる。そうすると、視点は神様ではなく、私に向くことになるのです。そういう人の口からは、神への感謝は出てこない。順境ならば、自分の何かを誇りにし、逆境なら神へのつぶやきか、他者への批判が口に上るようになるのです。

恵みが力の源

パウロは、恵みによって、キリスト・イエスによって、いつも「強く」されていました。「力を与えられていた」のです。彼の奉仕の力の源は、キリストの恵みでした。それは、自分が「罪人のかしら」(15節)であるにもかかわらず、福音の管理者という務めに任じてくださったということに表されていました。「私を忠実な者と認めてくださった」とは、「私を信じてくださった」という意味です。パウロが神を信じたので、その務めに任じてくださったのではありません。これでは報いの世界です。パウロはその務めにふさわしくありませんでした。「神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者」だったのです。それにもかかわらず、神はパウロを信じて、パウロにご自分をかけてくださった、ということです。ここに留まることで、パウロは日々、力を得ていたのです。

迫害者への神の忍耐にならう

このようなパウロは、「律法の教師」であろうとする人々を、どのように見ていたのでしょうか。この「ある人々」も「神をけがす者」であり、教会を混乱させる者たちでした。そこに、パウロは自分の過去の姿を見ていたことでしょう。さらにどんな過ちであっても、それに気づいて、キリストに立ち返るなら、恵みの湧き出る泉になるということ、パウロはこれを体験として知っていました。そして神様が、あの迫害者であった自分を、信じて、その悔い改めを待ってくださったことに照らして、テモテにはその神の忍耐をもって「ある人々」とかかわるようにとほのめかすのです。

恵みを奉仕の力に

クリスチャン生活というのは、奉仕の生活です。神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕えるということ、教会の内外にかかわらず、この二つが私たちの生活の基調になっているはずです。では、その奉仕の力の源は、どこにあるでしょうか。恵みを恵みとして持ち続ける、ということを力の源として、日々歩みたいと願わされます。