1章-7 あふれる恵み

私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。(14節)

前回の箇所から、パウロが自分自身を「祝福に満ちた神の、栄光の福音」における「あわれみの見本」として提示し、間違った教えを説き続ける「ある人々」へのかかわり方と、その人々への悔い改めの招きが始まっていることに注意を払っています。

神の残されたあわれみ~知らないでいる限り~

けれども、パウロの場合と、エペソの偽教師たちの場合では、状況に差があります。パウロの場合「信じていないときに、知らないでしたことなので、あわれみを受けた」のですが、エペソの偽教師たちは、「信じている」はずですから、この点でパウロとは違うのです。けれども「知らないで」という部分は、7節などからも、まだ条件の中にあって、自分のしていることの意味が、理解できないにもかかわらず、ある事柄に熱心になっている状態であるということがうかがえます。もし、自分のしていることの意味がよくわかった上で、なおもこの教えを説き続けるというのであれば、パウロに、テモテに、教会に残された選択肢は、教会からの除名ということなのです。けれども、パウロはまだそこに進むのは早いと考えている。神のあわれみはまだ残されていると信じて事に当たるのです。そして、当然のことながら、パウロがすべきことは、かれらが「知らないで」いることを「知らせる」ということです。したがって、テモテへの手紙は、間違っていることは何か、それは何故か、ということが次々に展開されることになるのです。

恵みの排他的独占への戒め~パウロ教ではない~

さて、ここでパウロは「私たちの主」という表現を使います。それはすでに1節、2節から始まっていた表現です。「私たちの救い主」「私たちの望み」「私たちの主なるキリスト・イエス」そして「私たちの主キリスト・イエス」さらに14節「私たちの主」と続きます。このように「私たち」という複数形が繰り返されることで、意図されているのは、恵みを排他的に独占する態度を戒めることです。

「私の主」という言い方がいけないわけではありません。けれども、この当時のエペソでは、ある人だけが恵みを受け取ることができ、ある人だけが、神に近づくことができるというような教えがなされていたことがうかがえます。

そういう事情の中ですから、パウロは、自らを福音の管理者として推し出すと同時に、自分を仲介者にしなければ救われないというような、パウロ教になることも否定しなくてはいけませんでした。それで念入りに、「私たちの」と繰り返すことで、神様を独占してしまうことを避ける言い回しをするのです。

ハイパー・オーバーフローに与る

「私たちの主の、この恵み」すなわち、いかなる罪人をも、神はあわれんで、信じてくださり、ご自分の役に立つ者として用いてくださるということ、これが「ますます満ちあふれるようになった」とパウロは言います。この言葉は、特別な言葉で、聖書ではここだけで使われています。英語で言うと「ハイパー・オーバーフロー」というニュアンス。若者ことばでいえば「めっちゃあふれまくり」と言ったらいいでしょうか。あまり良い意味では使わないのですが、ダムが決壊する、そういうイメージで捉えてください。恵みのダムが決壊して、もう辺り一帯、恵み浸し、そういうイメージをここでパウロは使っています。

そのような恵みに与るために必要なことは、私たちが罪人のまま、キリスト・イエスのもとへ行く、そこに留まり続ける、それだけです。そこに、イエス様の愛、イエス様の信仰があります。十字架の上で、イエス様は私たちを信じてくださった。「今はわからなくても、きっとわかる、きっと信じてくれる、きっと帰ってくる」そう信じてくださった。それは父なる神様へのまったき信仰、自分の愛の捧げものを、父なる神は無駄になさらない、そう信じる信仰ゆえ、これがイエス様の信仰、イエス様の愛です。その愛と信仰に触れるとき、私たちが罪深ければ罪深いほど、恵みはあふれて、あふれて、あふれていく。

このような恵みの世界で、感謝と賛美以外に何が出てくるでしょう。私たちも、そこに留まることです。健全な信仰はここにあるのです。